こんにちは。
前回の記事「風邪を引きました」から2年も経っていました。執筆したのは最近のような気もしますが、この2年間に思いを馳せると世界にも、会社にも、私にもいろいろなことが起こりました。

再開にあたって

前回の記事以降、休筆を宣言したわけではありません。不定期発行だったこともあって〆切などを設けずに執筆していたのですが、毎週のタスクプランの際に優先順位を上げる判断をしなかったということが最初の2ヶ月程度。その後は執筆再開の必要性をあまり感じなかったことがこの2年です。今思えば、1年半の記事執筆の期間で、その当時、公開の場で書きたいと思えて、誰かに伝えたいと考える重要なことは概ね書き終わったように感じていたようにも思います。
今回改めてまた記事を書こうかなと思ったのは、以下の理由からです。
・新たに伝えたいことができてきた
・記事にした内容が2年の時を経てアップデートされてきている
・世界も私も変化していることを伝えたい
・広く前向きでありたい

こうして再開してみようと思うと、何年も記事を書き続ける方への敬意は非常に高まります。記事にし続けるということもそうですが、日常の中にハイレベルな文章作成という習慣を磨くことは本当に素晴らしいと思います。
筆が載らないころもあるでしょうし、満足できる文章ばかりではないかもしれません。公私ともにいろいろなイベントはあるでしょうし、時間確保も容易とは限りません。その中で継続することで、レベルアップを果たす、その日常の過ごし方にも憧れます。

変化を続ける

今から2000年以上昔に編纂された、「淮南子(えなんじ)」という書物に、蘧伯玉(孔子の先輩)を評した表現があります。

「蘧伯玉行年五十にして四十九年の非を知る」
「六十にして六十たび化す」

淮南子

50歳になった時に49年間正しいと思っていたことが誤りだと気づいた。
60歳になった時に60歳なりに生まれ変わるような変化があった。

私は幼少期に古典に親しむことはありませんでしたが、経験を重ねるにつれ、古典の響きが心地よく感じられるようになりました。
10代、20代の頃に妄想する、40代、50代になったらこうなるだろうという姿と実際に40代、50代になった姿を比べてみるとと、願った通りになったこともありますが、全然望んでいなかったり、考えることすらできなかったことも多くありますが、未熟な自分には想像もつかない自分に出会えたことはかけがえのない幸せなことだと思います。
自分で望んでいない、考えることもできない状況(苦しいことも、そうでないこともあります)でこそ、自分の本音に気づく大切な機会になり得ますし、その向き合い方に、自分なりの充実感があるように考えています。
人はいつまでたっても進化できる可能性がある、そこに気づけばいつでも進化を遂げられる、死ぬまでそんな姿であることを残すことには意味があると思いますし、そこに満足して旅立てるような気がしています。
こんな考えも今日の仮説、明日になったら進化しているかもしれませんが、それでよいと思うのです。

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