ケニアのワンガリ・マータイさんが2005年に来日した際に出会い、世界に広げてくださったMOTTAINAI。
私にとっては、お祖母ちゃんがしばしば口にした身近な言葉でした。

勿体ないって?

困った時にWiki頼み。Wikiにはこんな解説があります。

「勿体無い」は、もともと「不都合である」、「かたじけない」などの意味で使用されていた。現在では、それらから転じて、一般的に「物の価値を十分に生かしきれておらず無駄になっている」状態やそのような状態にしてしまう行為を、戒める意味で使用される。
「勿体無い(勿体無し)」という言葉はおよそ室町期から使われるようになった言葉で、新村出編の広辞苑(第三版,1983)によれば「①神仏・貴人に対して不都合である。不届きである。②畏れ多い。かたじけない。ありがたい。③むやみに費やすのが惜しい。」と三つの意味が説明されているが、現在ではほぼ③の意味でしか使われていない。 室町時代の国語辞典『下学集』1の「言辞門」によると、「勿体」とは「正体無し」という意味、とある。ここでいう「正体」とは「隠されている本来の姿」「神仏の本体」。(「正体」の対義語として「勿体」は考えられていたようだ。)同じく『下学集』に続けて「勿体無し」とは「大いに正理を失う」とある。 「勿」の一字に「無し」の意味があるので、「勿体無し」は二重否定(つまり肯定)になるべき表現だが、むしろ「無い」ということを二回重ねることで、「正体」が失われていることを強調していると思われる。 神仏の真実の姿としての「御正体(みしょうたい)」から、その対義語としての「勿体(正体が無い)」という言葉が生まれ、肝心な、大切な本質が無いことをさらに強調して「勿体無し」と語られる時に、「大いに正理(正しい筋道)を失う」つまり、大事なものを見失ってしまったことを非難したり嘆いたりするニュアンスも含まれるようになった。 上記を補って再考してみると、 ①(神仏の正体を失っては)不都合だ、不届きである②(自分ごときに神仏・貴人の恩恵が届くなどとは分不相応であり、正しい筋道ではないので)恐れ多い、かたじけない、ありがたい③(物事の本来の能力や使い道などを生かし切らずに失うのは)無駄にしてしまって惜しい というように、「正体」の部分が移ろっていっているのがわかる。
なお、「勿体」は「物体」とも混用表記されるが、そこから「物体(もったい)とは元来は仏教用語」という説明がネット上に散見するが、その具体的な意味も論拠を述べるソースの明示もなく、仏教用語説は誤情報と思われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84

仏教用語だったんですね!

何が勿体ない?

「もったいない」ってお祖母ちゃんが言っていたのは、モノや時間を粗末に扱った時です。
・(焦げたところを食べずに)まだ食べられるのにもったいない。
・(食品が傷んで処分する時)食べられたのにもったいない。
・(ミミズにおしっこをかけようとして)そんなもったいないことやめなさい。〇〇腫れちゃうよ。※1
・(学校をさぼろうとすると)せっかく学校やっているのに、行かないなんてもったない。
・(子供会のスポーツ大会をさぼろうとすると)せっかくみんなとスポーツできるのにもったない。
・(買い食いして)そんなものにお金使ってもったいない。
・(お祭りの屋台ゲームを仕損じて)何もないのにお金使ってもったいない。
・(サイズが小さくなってきた服を捨てようとして)まだ使えるのにもったいない。※2
・(プレゼントの包装紙をビリビリと破いて開封した時)紙も使えるのにもったいない。※3

こういう時の「もったいない」は、叱られるということではなく、「もっと活かしようがあるのに残念だ」というニュアンスです。子供心にはお祖母ちゃんを悲しませちゃってごめんね、って思ってました。

誰かから親切にされた時ももったいないです。
・(近所の人にお菓子をもらって)もったいないことだねー

神聖なものにご縁があった時ももったいないです。
・(お祭りで山車を引っ張って)そんなものひかせてもったいない

こう振り返るとバリエーションのある言葉だったんですね。

※1 コメ農家では、一定の動物が大切にされ、一定の動物が嫌われます。大切にされるのは、ミミズ、つばめ。嫌われるのは、スズメ、モグラ、ザリガニ、イモムシなどです。作物づくり、その土台となる土づくりの観点から益虫/獣と害虫/獣です。
※2 使える洋服はおさがりに出します。兄弟に限らず、近隣の親戚や近所の方にも洋服のおさがりをしてました。
※3 折り紙につかったり、お弁当を包むときに使ったりしてました。

嬉しさを感じながらも理解を広げたい

マータイさんがMottainai運動によって、無駄遣いを戒めることを世界に発信してくださったように、小さな頃から慣れ親しんだ価値観が世界に広がることはやっぱり誇らしくも感じますし、とても嬉しく思います。日本でも過包装が減ったり、よい変化も生まれました。最近は、SDG'sの精神にも反映されているように思いますし、更に力強く、みんなでよりよい世界を作っていこう、という流れがあることも心強く感じています。その一方で、SDG'sという言葉があまりにも強調されたり、言葉の耳心地のよさが濫用されているように感じる時もあって、たまにモヤモヤしています。
無駄遣いのない世界を作っていくことは素晴らしいことです。しかしながら、何が無駄かの判断にはばらつきがあります。それはいけないことではなく、世界の人たちが一定の地域の特性に寄り添って生きている中で、その地域ならではの貴重さ、希少性、優先順位が変わるからやむを得ないと思うのです。例えば、実家の井戸水は電気ポンプで汲み上げていますが、水そのものは井戸の中で滾々と沸いているだけなんで、最初の井戸掘りと電気代を除けばほぼ無料です。でも、その近くの田んぼは水はけが悪く、水を抜くのにエンジンポンプを使い化石燃料を使います。お米の一部はそういう風に生産されて、皆さんの食卓に上がります。
自然の恵みなくして人の生活な一瞬たりとも成り立ちませんが、恵みを受け取りやすくするため、人間の都合で自然に介入することもあります。
自然の一部を恵みとして受け取るにあたって、大切に使うんだという気持ちを持ち、同時にありがたさと畏怖を自覚する中で「もったいない」と感じる心は素晴らしいものだと思います。

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