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人は見た目じゃない?


様々なアイディアを考え、付箋に書き出し、用紙にまとめるという行為をしたことがある。
それぞれのアイディアが見えやすくなるというのはあるが、それよりも付箋同士の余白に目がいった。
書いてあることは同じはずなのに、付箋を詰めて貼れば用紙を見る気がしなくなる。逆に、余白を作りすぎて疎な状態にすると、まとまりを感じられず、個々のアイディアをただ眺めているだけのようになり、こちらも見たくなくなる。結局、適度な余白をもうけて、視覚的にバランスのとれた配置にしていく。そうしないとそもそも見る気にならない。見た目は大切なのだ。

普段みているメールのことを思い出す。
仕事では色々なひとからメールがくる。見るメールの数が多いから、優先度の低いものとか、緊急でないものは良く内容を確認せずアーカイブに飛ばす。ただ、それとは別に「見る気にならない」というベクトルでアーカイブに飛ばすものがある。行間もろくに設けず、構成もめちゃくちゃな長文。こういうメールを出す人がいる。相手に見てもらう、相手の時間を奪っている、という意識が欠けているのだろうか。これが上の人間から来る場合や、自分に関わりの深いもの、そういうメールが「見る気にならない」ものだと大変だ。中身を見落とす可能性がでてくる。
逆に、スッと頭に入ってくるメールを出す人もいる。文字は最低限、読み手に何を伝えたいのかがはっきりと分かる、そして文章全体としての見た目もいい。見た目がいいものだから、内容を見ようと思う、読みやすいから内容が頭にはいる。

人間にもこれが当てはまるように観察される。「人は見た目じゃない」というのは、正しいのかもしれないが、やや誤解を生む。容姿のいい人間は社会で生きていくにあたって、全体的に見ればやはり得をしていると思う。容姿のいいひとととは話をしたくなる、話をすれば中身が分かる。圧倒的に、こう思う人のほうが多い。もちろん、少数だが、自分の頭で考え、外面的なものにとらわれないひともいる。ただし、総体的にみれば人は見た目じゃない、というのはきれいごとだと思う。

ただ、あくまでも「仕事」とか「社会」とか、一種のゲームをうまくやって行くためにはそういう見方ができる、というだけの話で、結局のところ自分の評価は自分でするべきだと思う。自分で自分を評価するとき、自分の見た目なんて評価の対象に入ってこない。この場合は「人は見た目じゃない」のかもしれない。

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