見出し画像

旅の記:2023年10月のツアー㉗福聚寺<田村家菩提寺>(福島県三春町)

【旅の記:2023年10月のツアー㉗福聚寺】

三春城主であった田村家の菩提寺である福聚寺(ふくじゅうじ)は臨済宗妙心寺派の寺院で山号は慧日山。暦応2年(1339年)田村輝定が現在の郡山市日和田町に建立したとされ、永正元年(1504年)に田村義顕が現在(田村郡三春町)の地に移転した。
田村氏は坂上田村麻呂の末裔とされ、その子孫が代々田村郡を領してきたとされる。田村庄司家と三春田村家の系統があり、奥州まで広がった南北朝時代の動乱で田村庄司家は滅亡、代わって三春田村氏が台頭した。仙道の一国人領主でしかなかった三春田村氏は23代当主田村義顕の時代に他の領主を従えて、三春城へ本城を移転して戦国大名化したと。とは言っても、その規模は小さく、周りの有力大名たちの侵攻や干渉を受け、内部では独立性の強い在地領主層の抵抗・離反に悩まされた。25代当主田村清顕の時に一人娘の愛姫を伊達政宗の正室として嫁がせて、伊達氏を後ろ盾に独立を保持した。天正14年(1586年)清顕が急死したことで家中が伊達派と相馬派で対立、伊達政宗が介入して相馬派を一掃して清顕の甥・宗顕を三春城主に据えるなど仕置きを行ったことで、事実上伊達家属領となった。
天正18年(1590年)小田原征伐において参陣の督促を受けるが、宗顕は参陣しなかったことで、奥州仕置において改易された。田村領を自領として扱う伊達政宗が参陣を差し控えさせたという。政宗は秀吉に、田村領は正当な自領であると働きかけ、政宗に与えられることとなる。宗顕には「伊達家の領有となったために、所領回復も容易であろう」と伝えたが、裏では宗顕の所領回復運動をつぶす動きを見せている。これは奥州仕置を利用して田村領を乗っ取られた形になり、宗顕は改易後、政宗の庇護の申し出を断り、名も定顕と改め隠居したことでも、政宗への怒りを見て取れる。後に愛姫の招きにより仙台領白石に映り、宗顕(定顕)の子らは白石城主片倉景綱の姉である片倉喜多の名跡を継いだ。
田村家中の人々は蒲生氏や上杉氏などに仕官するか、旧知行地で帰農した。敗北による帰農ではなかったため、誇り高く、これらのうち多くのものは「御屋形様」と呼ばれ村落特権層を形成した。寛永21年(1645年)秋田氏が入封した際には、その権勢を削ぐために名字帯刀を禁止、持高の制限を行ったが、庄屋層でも特に由緒あるものなどは名字帯刀御目見得の特権を維持し、士分に準じた郷士的格式であった。
また愛姫の遺言により2代仙台藩主伊達忠宗の三男・宗良が慶安5年(1652年)岩沼3万石を分地され、田村宗良を名乗り田村家が再興され、後に一関に移り一ノ関藩となった。伊達家から領地を分けられた内分分家大名であったが、幕府からは譜代大名格として扱われた。初代一関藩主である田村建顕は奏者番として江戸に出仕し、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の身を預かり、邸内が浅野の切腹処分の地となっている。再興された田村家は一関藩主として幕末まで続き、明治元年(1868年)戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加するが、仙台藩と共に明治政府に降伏。明治以降は華族令により子爵に列した。

寛政12年(1800年)再建の本堂
十一面観世音御堂
田村家三代の墓。右から23代義顕、24代隆顕、25代清顕

いいなと思ったら応援しよう!