見出し画像

旅の記:2023年9月のツアー㉔松山城<現存天守>(愛媛県松山市)

【旅の記:2023年9月のツアー㉔松山城】

松山市の中心地、勝山にある松山城は慶長7年(1602年)加藤嘉明が関ケ原の戦いでの戦功により伊予国正木10万石から20万石加増され、伊予松山に入り築城したし平山城です。松山という地名は嘉明が命名したそうです。しかし城の完成を見る前に寛永4年(1627年)に嘉明は会津43万5500石に転封になりました。もともと徳川家光は宇和島・今治を領していた藤堂高虎を北の要所に封じるつもりだったが、高虎が嘉明が適任であると推挙したという。この二人、仲が悪かったのですが、この一件ですっかり仲直りしたそうです。ただ寒い北の地に行きたくなかった高虎が嘉明に押し付けたという、うがった見方も。。さて、代わって何かと騒動の多かった蒲生家が会津から転封となり、蒲生氏郷の孫である忠知が入って築城を完成させた。しかし寛永11年(1634年)忠知が参勤交代の途中に死去、蒲生家は断絶となる。寛永12年(1635年)に久松松平家の松平定行が15万石の藩主となり松山城に入る。寛永19年(1642年)に創建当初5重であった天守を、定行が三重に改築。天守は天明4年(1784年)元旦に落雷で焼失してしまい文政3年(1820年)に再建工事に着手、35年の年月をかけて安政元年(1854年)第12代藩主勝善のときに大天守以下、本丸本壇を再建した。
幕末、伊予松山藩は親藩ということもあり幕府方につき、長州征伐では先鋒を任される。この際に占領した周防大島で住民に対する略奪・暴行などの行為があって、後に長州藩に冷遇される要因となった。14代藩主定昭は慶応2年(1866年)家督を譲られるとすぐに幕府老中に就任するも、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍の敗北、慶喜が江戸に戻ったことを知ると帰国した。朝敵となった伊予松山藩であったが、抗戦派を説得して恭順を決め、同年1月27日に城を土佐藩に明け渡した。伊予松山藩は財政難の中15万両を朝廷に献上、定昭も蟄居して先代藩主勝成の再勤、家老などの蟄居・更迭を条件に許され松山城を返還された。
明治から昭和にかけて、火事や放火、戦災によって大天守を除く多くの建物を焼失した。昭和25年(1950年)焼失を免れた天守など21棟の建造物が重要文化財に指定された。また多くの建物が再建されている。

加藤嘉明騎馬像。秀吉のもとで子供のころから活躍し、賤ケ岳の七本槍のひとりでもあります。秀吉の子飼いの中で親戚筋ではなく、出世をした嘉明と藤堂高虎はお互いをライバル視していたようです。
登城方法はいくつかあるようですが、歩きはきつそうなのでロープウェイにて。
リフトもあるのですが、高所恐怖症のため、より安心感のあるロープウェイにて。
いざ
戸無門より。寛政12年に建てかえられたもの。重文。
筒井門。昭和46年(1971年)復元。
太鼓門。昭和48年(1973年)復元。
本丸へ
天守・小天守などを含めて本壇というそうです。い
天守。左が小天守、右が南櫓。
一の門。天明6年(1786年)再建。重文。
二の門。嘉永5年(1852年)再建。重文。
天守
三の門。嘉永5年(1852年)再建。重文。
穴蔵うより天守へ。
加藤嘉明加藤着用と伝わる鎧。
仕切門。嘉永年間(1848~1853年)の再建。重文。
天神櫓。昭和54年(1979年)復元。
紫竹門。嘉永年間(1848~1853年)の再建。重文。
左・乾門・乾門東続櫓。昭和57年(1982年)復元。右・乾櫓。慶長年間(1569~1614年)の造営。重文。
野原櫓。慶長年間(1569~1614年)の造営。重文。本城最古の建物。
艮門・同東続櫓。昭和59年(1984年)復元。
戻り路、筒井門には隠門がありました。
帰りもロープウェイにて。

俳聖・正岡子規が「松山や 秋より高き 天守閣」と歌ったそうですが、車で市内に向かっている時に、遠くから見つけたお城に感動しました。城山から見る景色もとてもよく、現存の建造物ももちろんのこと、復元建造物もとても忠実に復元されていると思います。圧巻の松山城!別名は金亀城、勝山城。現存天守としては一番新しいそうです。

ロープウェイ降りて、麓にあります東雲神社へ。文政6年(1823年)伊予松山藩11代藩主松平定道が藩祖定勝の神霊を祭るために創建、松山空襲にて社殿の多くを失うが、昭和48年(1973年)に社殿が完成した。

いいなと思ったら応援しよう!