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旅の記:2023年6月のツアー③関宿(三重県亀山市)

【旅の記:2023年6月のツアー③関宿】

三重から奈良へ。お腹が空いたなと例のごとくカレー屋さんを探してたどりつくと、そこは東海道47番目の宿場町・関宿でした。国の重要伝統的建造物保存地区に選定(昭和61年)されていて、江戸から明治期にかけての町屋が約200件も並び、全長1.8㎞にわたり古い街並みが保たれています。東の追分から伊勢街道、西の追分からは大和街道が分岐していて、古代から交通の要衝とされ、壬申の乱の頃特に重視された美濃の不破関、敦賀の愛発関と並び鈴鹿関として三国之関の一つに数えられた。
天正年間(16世紀末)に伊勢国領主だった関盛信が道路を改修し、慶長6年(1601年)徳川家康が行った宿場制度によって東海道47番目の宿場町になり本格的に整備されたことで、江戸時代は大いに賑わったそうです。
戦後、街並み保存の機運が高まって昭和55年(1980年)に「街並み保存会」が結成されて、「関町関宿伝統的建造物保存条例」が制定された。

東海道関宿の真ん中あたりから京都方面
瑞光寺。関盛信の菩提寺。
瑞光寺開山の豊屋永隆和尚は三河国の生まれで家康と親交があった。上洛の際に立ち寄った家康が庭先の柿を食べたそうで、この柿を権現柿と呼ぶようになった。
川北本陣跡
高札場
福蔵寺。天台真盛宗の寺院。織田信長三男信孝が父の冥福を祈るために建立に取り掛かるも、織田家後継者争いに敗れ、自害。家臣の大塚長政が当時に首を持参して菩提寺とした。
信孝の墓
関の小万の墓碑。
久留米藩の剣術指南役・巻藤左衛門は口論から同僚の小野元就に騙し討ちされてしまう。蓄電した小野が名を変えて亀山藩に仕えていると知った妻は仇討ちのため関宿にたどり着き旅籠の山田屋に泊まっていたが、身重だった彼女はそこで女の子を産み亡くなってしまう。娘は小万と名付けられ山田屋吉右衛門夫婦にでわが子のように育てられるが、15歳になったのを機に、母が死に際に伝えた仇討ちの話をする。父の仇討ちを決意した小万は新陰流榊原権八郎に剣を学び、権八郎は’’突き’’だけを伝授した。3年の修行の経た天明3年(1783年)に亀山城大手門から下城してきた小林軍太夫と名を変えていた小野元就を見事に突きで討ち果たした。願いを成就した小万はその後も山田屋で働き続け、この美貌の女剣士見たさに大変繁盛したという。享和3年(1803年)に38歳でなくなり福蔵寺に葬られた。
小万が働いていたという山田屋は会津屋という屋号で今も商いを続けている。
関地蔵院。九関山宝蔵寺地蔵院。天平13年(741年)行基の創建と伝わる。本堂・愛染堂・鐘楼が重文。
愛染堂
鐘楼

1.8㎞も続く宿場町ですから、もっとたくさん見どころがあるようです。が、時間の関係もあり奈良へ向かうのでした。ぜひまたゆっくり来たいですねー!
カレーは街道沿いにあります古民家カフェ・エンでいただきました。野菜たっぷり、おいしかったです。

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