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旅の記:2023年9月のツアー㊼箕作阮甫旧宅(岡山県津山市)

【旅の記:2023年9月のツアー㊼箕作阮甫旧宅】

箕作阮甫は寛政11年(1799年)津山藩医の家に生まれた。4歳で父を、12歳で兄を亡くし家督を相続。儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)に京都に出て、3年間医術習得に励んだという。文政2年(1819年)帰国すると開業し、翌年には結婚した。文政6年(1823年)藩主の供で江戸へ行き、宇田川玄真の門に入り、洋学を学んだ。天保2年(1831年)家族と共に江戸に移り津山藩邸に入るが、八丁堀に家を構え、医院を開き、非番の日に町人の診察を行った。天保5年(1834年)神田佐久間町を火元とする火事で、家を焼け出される。せっかくそろえた家財も失い落胆する阮甫は津山藩邸に戻り、藩医の仕事以外の時間は翻訳に没頭し、天保6年(1835年)シーボルト門人の伊東玄朴から依頼を受けて翻訳した『医療正始』の刊行が始まる。またオランダ医学書から主要な論文を抜き出した日本で最初の医学雑誌『泰西名医彙講』を刊行。翻訳には緒方洪庵らも手伝ったという。その後、阮甫は医学に限らず語学や地理、兵学、宗教学、歴史など多くの分野の本を翻訳した。
天保10年(1839年)幕府天文台翻訳員となり、嘉永6年(1853年)ペリー来航時にはアメリカ大統領国書を翻訳した。また対露交渉団の一員として長崎にも出向いて外交文書の翻訳に関わり、養子の箕作秋坪やジョン万次郎、村田蔵六らと共に活躍した。安政3年(1856年)江戸幕府が開設した蕃書調所の主席教授を務めた。安政5年(1858年)漢方医らの抵抗もあったが、80名以上の蘭方医たちの主導的な役割を担い、幕府へ働きかけをして、お玉ヶ池種痘所を設立した。蕃書調所とお玉ヶ池種痘所は、それぞれ発展して現在の東京大学と東京大学医学部になっているという。
文久2年(1862年)洋学者として初めて幕臣に列せられる。文久3年(1863年)死去。享年65。
阮甫が翻訳した本にはアメリカ合衆国の独立宣言、歴史、政治、行政、教育が具体的に記述されたものもあり、封建社会下であった当時の志士たちに多大な影響を与えたという。またキリシタン禁制の時代に漢訳聖書を学び、旧約聖書を訳した本も著しています。多くの有能な人物たちが阮甫に学んだだけでなく、子孫には著名な学者を多く輩出しています。

箕作家が元禄時代(1688年~1704年)から居住し、12歳で家督を継いだ玄歩が文政9年(1812年)14歳の時に転居するまで、少年期をすとした家。昭和50年(1975年)に解体復元、国の史跡に指定された。
坪庭の奥には離れ家や土蔵があり、江戸末期の街道筋の町家の特徴を残す。



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