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旅の記:2023年10月のツアー⑨土崎明神社・湊城(秋田県秋田市)

【旅の記:2023年10月のツアー⑨土崎明神社・湊城】

慶長7年(1602年)に常陸国から転封となって秋田に入った佐竹義宣の旧臣・川口惣治郎というひとが、氏神であった神明社を奉じて土崎に移った。元和6年(1620年)、土崎の繁栄を期に、藩主の許可を得て、湊城跡に土崎総鎮守として社殿を建立した。神明社ということで、ご祭神は天照大神です。

境内からお隣の公園へ
湊安東氏顕彰の碑

安東氏は平安中期に奥六郡を支配した俘囚長・阿部貞任の次男の系統とされ、とても長ーい歴史を持っています。鎌倉時代初期に安藤五郎(鎌倉時代・南北朝時代は「安藤」とされていることが多い)というひとが津軽地方に置かれ、正確なところは不明ながら蝦夷対応に当たったのがはじめとされる。鎌倉時代末期から南北朝時代には津軽十三湊を中心に栄えたとされ、夷島(北海道)にもその勢力を広げた。その後、室町時代に入る過程で、南下して秋田郡に入った一族が上国家、津軽に残った惣領家が下国家と称した。
室町時代初期に最盛期をむかえる下国家でしたが、15世紀半ばころになると八戸方面で勢力を拡大していた南部氏に追われ、下国家は北海道に逃れることになる。一度は絶家に追い込まれるが、分家の安藤政季が南部氏の傀儡として、檜山安東氏となった、という説がある。政季もまた南部氏と対立し、北海道に撤退したこともあったそうですが、康正2年(1456年)に出羽国小鹿嶋に渡り、子の忠季とともに津軽に隣接した檜山郡を支配していた葛西氏を滅ぼして、本拠を構え、明応4年(1495年)に檜山城を築城した。一方、上家国は湊家として本願寺や細川氏と誼を通じていて、中央との交流があったことが確認されている。湊家の成り立ちに関しては、いろいろな説があるようですね。。
時は戦国時代の後期の元亀元年(1570年)、湊家に跡継ぎがなく、断絶の危機を迎えたために、下国家の愛季が湊家も継承して安東氏を統合して、全盛期を迎えることとなる。愛季は文武に優れ、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された名将です。愛季は勢力範囲を広げながら居城を檜山から脇本、そして天正17年(1589年)に湊城に移した。これ以降、秋田城介を名乗り、秋田氏を称することとなる。愛季が没するとまだ若かった実季が後継者となるが、それをよしとしない一族の通季が反乱を起こす。しかしこれを鎮圧し、秋田郡の支配を確固たるものにした。実季は慶長4年(1599年)から湊城の大規模な改修を行った。
しかし実季は関ケ原の戦いの混乱で、裏切りを疑われ、一度はその嫌疑を晴らすが、慶長7年(1602年)に常陸国宍戸へ事実上減転封された。秋田にはかわって常陸から佐竹氏が安東氏の5万石の約4倍の20万石で入封、湊城は手狭のために慶長6年(1604年)佐竹義宣は久保田城を築城して移り、湊城は破却された。

、、と、安東家、歴史が長いし、複雑な経緯なので、調べる資料によって時期が違ったり諸説あったりで、まとめきれませんが、とにかく戦国期に秋田で活躍した一族がいたということです!宍戸に転封後は、実季の子・俊季の時代である正保2年(1645年)に陸奥国三春に55000石で移され、5000石を分家に分与、5万石三春藩となった。
このツアーの後半には三春にも行っているので、お楽しみに!


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