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旅の記:2023年11月のツアー㊲臼杵城跡(大分県臼杵市)

【旅の記:2023年11月のツアー㊲臼杵城跡】

臼杵城はかつて臼杵湾にあった丹生島に築かれた城です。丹生ということで、丹(水銀の精製や朱色の顔料のもと、賢者の石と呼ばれた)採取される島ということですね。城は丹生島城と呼ばれていた。
永禄4年(1561年)に毛利氏との戦いに敗れた大友義鎮(宗麟)が翌永禄5年(1562年)に丹生島に新城を築いて、府内大友館から移ったという。宣教師の書簡には弘治3年(1557年)前後には、家臣の反乱を避けて丹生島に移った記述もあるそうです。いずれにせよ、既得権益の障害を避け、新しい経済都市を作り出すために、本拠を移したという。
ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下に多くのキリスト教施設が建てられ、城内には礼拝堂もあったという。天正7年(1579年)から2年ほど田原親貫の反乱鎮圧のために府内に政庁を移している。
天正14年(1586年)島津軍との丹生島の戦いではポルトガルから入手した大砲「国崩し」などを動員して、敵を退けたが、城や城下のダメージは大きかったという。翌天正15年(1887年)宗麟死去。
朝鮮の役にて宗麟の息子・義統が敵前逃亡の咎で改易処分となり、代わりに福原直高(石田三成の娘婿)が3年間居城。慶長2年(1597年)太田一吉が入城すると、城下の整備、三の丸の増築などの大改修を行った。関ケ原の戦い後の慶長5年(1600年)に美濃国郡上八幡より5万石で稲葉貞通が入り臼杵藩となり、2代典通にかけて城の修築を行い、現在の姿となった。その後、明治維新まで稲葉氏15代の居城となる。幕末、臼杵藩は佐幕・討幕どちらにも与せず傍観の立場をとったが、明治2年(1869年)に豊後諸藩の中で一番に版籍奉還を行い、最後の藩主・久通は藩知事に任命されている。
明治6年(1873年)城の建物が一部を残して払い下げられた。明治10年(1877年)の西南戦争では薩摩軍の侵攻に備えて、6月1日に旧臼杵藩家老・稲葉頼が臼杵城に籠城したが、薩摩軍に奪われていしまう。しかし6月7日には新政府軍から4個大隊と軍艦3隻という援軍が贈られ、6月9日には奪還している。
明治20年(1887年)城の周囲が埋め立てられた。昭和44年(1966年)大分県の史跡となる。

(緑の線は、携帯本体の反射です)
城内にある護国神社の鳥居でしょう
会談は補修中でした
大門櫓。平成13年(2001年)に復元。
江戸時代建造の畳櫓
西之丸御殿跡と護国神社
二の丸跡
本丸跡
天守櫓跡。
左手は卯寅口門脇櫓。江戸時代の建造。
宗麟が祀ったという卯寅稲荷神社

臼杵城の戦いでは「豊後のヘラクレス」と呼ばれた、大友家家臣で槍の名手である柴田リイノ礼能。が討死していますね。熱心なキリスト教信者で、息子・統勝は宗麟が秀吉に謁見したときも同行していますね。この時、宗麟が天徳寺を号し、統勝にも天徳寺の姓を与えたため、礼能も同性を名乗った。
丹生島城が島津軍に包囲されると、宗麟と共に籠城するが、兄が島津軍に寝返ったため、宗麟が礼能父子の真意を質すと、疑われたことを恥じ、打って出て親子ともども討たれたという。宗麟は涙を流し悔やんだ。




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