旅の記:2023年8月のツアー⑱九戸城(岩手県二戸市)
【旅の記:2023年8月のツアー⑱九戸城】
青森県と思いきや岩手県なんですね九戸城。全国ツアーをするなかで、この場所に来ることがあるなんて!と思うことがよくありますが、九戸城もそんな場所の一つで、感動がありました。
南部氏の一族である九戸氏の居城で、築城の正確な時期ははっきりしないようですが、明応年間(1492年~1501年)に築かれたそうです。三方を河川に囲まれた天然の要害で、多くの曲輪を擁し、本丸の一部には東北最古の石垣がある大規模な城であった。
天正10年(1582年)第25代南部氏当主晴継が13歳という若さで急死すが、もともともともと南部一族間での対立があった中でのことで、後継者争いが本格化することとなる。この時候補に挙がっていたのが、24代当主晴政の養子になっていた信直と晴政の次女の娘婿だった九戸実親の二人であったが、信直側についた重臣・北信愛の調略もあり、やや強引に信直が26代当主に決定します。これにより南部氏と九戸氏の対立は深まっていく。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして奥州仕置を実施して、南部信直に朱印状を与え、当主信直が南部氏宗家としての地位を確約されて、他の一族は家臣として従属することが決まったが、九戸氏はこれをよしとはしなかった。奥州仕置に不満を持った人々による一揆が多発するなか、天正19年(1591年)の正月、跡継ぎ争いで敗れた九戸実親の兄・政実は当主信直への参賀を拒絶、実質的に敵対する姿勢を示すと、櫛引氏や七戸氏など周辺の氏族を取り込んで兵を挙げて周辺の城館を次々に落としていった。
もともと南部氏の精鋭であった九戸勢に信直は苦戦、温床の望めない家中の争いに関わりたくない家臣たちが消極的であったこともあり、自力での九戸政実討伐をあきらめ、息子・利直と北信愛を秀吉のもとに派遣し、協力を仰いだ。
同年6月、秀吉は奥州再仕置軍を編成、総大将に豊臣秀次とし徳川家康、上杉景勝、大谷吉継、前田利家・利長、石田三成、佐竹義重、伊達政宗、最上義光、秋田実季、津軽為信・・・とそうそうたるメンバーで一揆を平定しながら北進、さらに蒲生氏郷、奥州仕置実行役であった浅野長政も加わり南部領近くまで進撃すると九戸勢の前線基地を落として、同年9月2日に総勢6万5000の兵で九戸軍5000が籠る九戸城を包囲した。
政実は少数の兵で奇襲を行ったり、堀や田に米ぬかを蒔いて陸地のように見せ敵軍を誘い込み、足を取られて動けないところに鉄砲を浴びせるなど、巧みに戦った。そして半数を討ち取られてもなお戦い続ける籠城軍に、仕置軍は思わぬ苦戦を強いられます。
そこで浅野長政は九戸氏の菩提寺・鳳朝山長興寺の薩天和尚に頼んで使者に立ってもらい「開城すれば城内の人々の命は助ける」との条件で和議を申し入れた。和議は謀略という声も上がったが、政実はこれを受け入れて、実親に後を託し重臣と共に白装束姿で仕置軍に降伏した。
浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で地元の百姓たちに帰還命令を出すと、実親以下城内に残った人たちを二の丸に押し込めて、なで斬りにして火をかけた。さらに政実ら首謀者たちは栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑されたという。。
九戸政実は南部氏の家督を弟・実親に継がせたかったのか、抵抗することで南部氏から独立した形で九戸氏を存続させたかったのか、それとも意地だったのか、「九戸実親の乱」は「九戸一揆」とも呼ばれ、単純に新しい支配体制に反抗したのか、、本当の気持ちはわかりません。一連の流れは南部信直の目線で見るか、九戸政実の立場から見るかでまったく変わってきますね。
九戸氏残党への警戒から、秀吉の命で居残った蒲生氏郷が城と城下町を整備、南部信直が三戸城から移って、九戸を福岡と改めて、居城とした。
慶長2年(1597年)に南部氏が盛岡に移ったことで、城代が置かれたが、寛永13年(1636年)に廃城、破却された。
雨が降り続いたこともあり、入れないところもありましたが、とても広く、東北有数の城であることが分かります。城跡は昭和10年(1935年)に国の史跡に指定され、保存整備されているが、三の丸に関しては大部分が市街地化していて、指定対象にはなっていない。
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