見出し画像

旅の記:2023年8月のツアー⑬根城(青森県八戸市)

【旅の記:2023年8月のツアー⑬根城】

青森でのライブを終えて次は山形は米沢、、なのですが、2日間もOFFになってしまったので遠回りして八戸へやってまいりました。奥州と言えば南部氏、というわけで南部師行が南北朝時代に築いた根城へ。
元弘3年(1333年)に南朝方の武将・北畠顕家は後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国司として陸奥国に下向。国代として供奉した甲斐国波木井の地頭職・南部師行は建武元年(1334年)に額部郡の郡代を命じられ八森に城を構え、南朝方の根本になるようにと「根城」と名付けた(根城南部氏)。津軽の豪族との戦いで戦功を立てた師行は津軽地方にも勢力を伸ばす。しかし後醍醐天皇の敵対した足利尊氏討伐に遠征した師行は、延元3年・建武5年(1338年)北朝方の武将・高師直との和泉国石津川の戦いで北畠顕家と共に戦死してしまう。弟の政長が跡を継ぐことになるが、南朝方が劣勢になるにつれて、奥州北部の南部氏の勢力も弱体化していった。このため政長の孫・信光は八戸から甲斐国波木井に移った。明徳3年(1392年)南北朝統一がなると、当主となっていた信光の弟・政光は足利義満に仕えていた三戸南部氏・南部守行の勧めで北朝に帰順、八戸に再び下ることになり、三戸南部氏の影響下に入った。その後、根城南部氏は八戸氏を称するようになる。
天正18年(1590年)三戸城主南部信直は小田原征伐に際し豊臣秀吉に臣従し所領南部7郡を安堵され、八戸市は宗家の支配下に組み込まれた。天正20年(1592年)秀吉の命で城は破壊されるが、館を残し、これ以降も八戸市の本拠であった。江戸時代に入り宗家の利直が盛岡城を築き盛岡藩が成立すると八戸も盛岡藩領に帰属、寛永4年(1627年)八戸氏(根城南部氏)22代・直義は遠野城に移封となり、根城は廃城となった。
甲斐源氏の流れを汲む南部氏は師行以前、平安時代末期の奥州合戦で戦功をたてた南部光行が額部5郡を与えられて入部したそうです。とても古い、由緒ある一族ですね。それもあって複雑です。。

根城は中世の貴重な城館として昭和16年に国の史跡に指定された。平成6年、本丸跡に安土桃山時代の建物を復元。

八戸氏博物館前に師行の騎馬像
博物館から根城へ。
堀跡
右手に薬草園、東禅寺跡
堀跡
本丸全体模型
本丸東門
納屋
主殿
主殿内部
出陣前の様子かな?
上馬屋
中馬屋
正門と祭壇跡?
工房




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?