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旅の記:2023年9月のツアー㉑高知城<現存天守>(高知県高知市)

【旅の記:2023年9月のツアー㉑高知城】

現在の高知城(瓦や壁の色が鷹の羽の色に似ているとして鷹城とも)がある大高坂山には南北朝時代から城が築かれていたとされ、大高坂松王丸が居城とし、南朝方について後醍醐天皇第7子・満良親王を迎えたという。しかし北朝方と戦って敗れ興国2年(1341年)に落城、廃城となっていた。天正16年(1588年)そこへ戦国大名・長宗我部元親が岡豊城から本拠地を移した。しかし低湿地のために工事が難航、代わりに港に近い浦戸城を築いた、とも、朝鮮出兵のために一時的に拠点を浦戸に移し、大高坂城の整備も進めていたとも言われる。
慶長6年(1601年)関ケ原の戦いにて長宗我部盛親は西軍について改易、山内一豊が掛川城から移り土佐一国24万2千石で浦戸に入った。浦戸は城下町を開くには狭かったため、大高坂山に城を築くことにし、水害の多い湿地帯であることを解決するために、百々綱家(旧織田秀信家老)を雇用して、築城・城下町整備・治水工事に着手した。百々綱家は関ケ原の戦いで罪人とされ、京都で蟄居処分となっていたが、近江出身で安太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたとされ、一豊は徳川家康に嘆願して赦免してもらい、土佐に呼んだという。浦戸城の資材も流用し、それぞれ専門の職人を大阪から雇用し、人足には山内家家臣団だけでなく、子供たちも工夫して参加させ、賃金も支払われた。
慶長8年(1603年)本丸と二の丸の石垣が完成し、旧暦8月に本丸が完成すると、一豊は入城した。この際に河中山城と改名した。しかし水害が頻発したために慶長15年(1610年)2代藩主忠義は「河中」の名を変更して、高智山城と改称した。高智山城が後に省略されて、高知城と呼ばれるようになり、都市の名前も高知となったそうです。慶長16年(1611年)に難航していた三の丸が竣工、高知城すべての縄張りが完成した。
享保12年(1727年)大火により追手門以外のほとんどを焼失、現在の建造物の大半はこの後再建されたものとなる。
寛延2年(1749年)天守ほか櫓・門などが再建。
宝暦3年(1753年)再建完了。
明治6年(1873年)廃城令により、二の丸御殿など現存建造物以外は破却され、高知公園となった。昭和9年(1934年)天守など15棟の建物が国宝(現・重要文化財)に指定された。昭和20年(1945年)高知大空襲で被害を受ける。昭和23年(1948年)各建造物の修復を開始、昭和34年(1959年)に完了。その後も石垣や門の修復が続けられている。

一豊の騎馬像
追手門(重文)
板垣退助像。「板垣死すとも、自由は死せず」で有名。また別の機会に深堀したいですね。
山内一豊室・見性院(千代)の像。内助の功で知られていますね。夫にいい馬を買わせるためにへそくりを渡し、そのおかげで馬揃えで信長の目に留まった、とか、石田三成挙兵の知らせを聞いて、夫に家康に忠誠を誓うように促した手紙を届けた、などなどとてもできた女性であります。
三の丸跡
二の丸跡
西多門(重文)
天守(重文)。寛延2年(1749年)に再建。天守と本丸御殿(重文)が現存する唯一の城。天守は再建前より小ぶりになったが、外観は同じということです。
本丸御殿。大河ドラマ「功名が辻」にて仲間由紀恵さんが着用したものだそうです。
お茶所
天守へ
高知城模型
天守最上階への階段、急ですね!
天守最上階
一領具足
黒鉄門(重文)

すべての建物は写真に撮れませんでしたが、本当に数多くの現存建造物がありますね!高知城も本当に久しぶりでした。



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