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旅の記:2023年10月のツアー㉟太田城(茨城県常陸太田市)

【旅の記:2023年10月のツアー㉟太田城】

12世紀半ばころ新羅三郎義光の孫・昌義は後三年の役の功により常陸北部を領し、佐竹氏を名乗り馬坂城に入ると、二代目隆義の時に太田城主藤原通盛を服従させ、太田城を奪い、自らの居城とした。太田城は天仁2年(1109年)に藤原秀郷の四世・藤原通延が下野国から太田郷に入り太田大夫を称し築城したのがはじまりとされる。隆義入城の際に上空を鶴が飛んでいたということで「舞鶴城」とも呼ばれる。
治承4年(1180年)源頼朝が挙兵した際には、平氏との関係が強かったこともあり佐竹氏は日和見的な態度をであった。同年富士川の戦いで源氏が勝利すると、頼朝は佐竹氏討伐の兵を向け、隆義の秀義は抵抗するも敗れ、奥州へ逃げた。佐竹氏の所領は没収されるが、家名存続は許され、文治5年(1189年)の奥州合戦に頼朝方に参じたことで、旧領への復帰が叶ったものとみられる。
応永14年(1407年)11代当主義盛が男子なく没し、関東管領山内上杉憲定の子・義人を婿養子となって家督を継いだ。これをよしとしない有力分家である山入氏と宗家の争いは100年近くも続き、一時は太田城を入山氏に奪われることもあった。最終的には宗家が入山氏を撃退し、太田城を中心に佐竹氏の支配が確立された。
天正18年(1590年)小田原征伐ではいち早く秀吉のもとへ参陣し、戦後は常陸一国を安堵された。これを機に常陸支配の基盤を固めようと思った佐竹義重・義宣父子は水戸城への移転を図り、水戸城城主の江戸重通に退去を要請するが、臣従はしつつも独立心の強い重通は従わなかったので、城を武力で攻め落として奪い、義宣が水戸城へ入り、太田城には父・義重が隠居場として太田城に残り北城と呼ばれたそうです。
慶長5年(1600年)、400年にわたり太田城主であった佐竹氏は関ケ原の戦いで旗幟を鮮明にしなかったため出羽秋田郡20万石へ減転封となった。その後は一国一城令もあり城壁としての機能は廃されたが、水戸徳川領になってからは太田御殿と呼ばれ、水戸藩家老中山氏が管理した。

現在、本郭には太田小学校があります。ご時世的に勝手に入って撮影は難しかろうと、外からぱしゃり。
拡大写真になりますが、舞鶴城跡の碑がありました。
敷地内、また周辺に土塁などの一部が残っているそうです。






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