旅の記:2023年11月のツアー⑤栄涼寺<牧野家菩提寺・河合継之助墓>(新潟県長岡市)
【旅の記:2023年11月のツアー⑤栄涼寺】
栄涼寺は永禄年間(1558~1570年)に牧野成定によって三河国牛久保に建立された。牧野氏の移封に合わせ多胡、長岡と移転し、現在の地に移り栄涼寺と称するようになった牧野氏の菩提寺です。
東三河に勢力を持っていた牧野氏は今川氏に帰属して、松平家(徳川家)の三河国統一に抵抗していたが、今川氏が衰退すると永禄9年(1566年)頃に牧野定成が徳川氏に帰属し、家康の国衆に列して、酒井忠次の配下となり各地を転戦した。定成の子・康成は天正3年(1575年)に遠江牧野城、天正12年(1584年)駿河長窪城、天正18年(1590年)に家康の関東転封に際して上野国勢多郡多胡において2万石を与えられた。元和2年(1616年)康成の子・忠成が越後に5万石で入封、元和6年(1620年)に1万石を加増、寛永2年(1625年)に新墾田2000石を表高に加え長岡7万4000石の藩主となった。幕末には10代忠精、11代忠雅、12代忠恭が老中となり、忠雅は日米和親条約の署名者でもある。
慶応4年/明治元年(1868年)の戊辰戦争で藩主・忠訓は局外中立を保とうとするが、家老・河合継之助と新政府軍の交渉は決裂、奥羽越列藩同盟軍に参加することとなり、長岡城は陥落。忠君は官位を剝奪され蟄居、城地召し上げとなった。しかし弟の忠毅に長岡藩の2万4000石での再興が許され、廃藩置県後には家族の子爵家に列した。
河合継之助は文政10年(1827年)長岡城下で牧野家家臣・河井代右衛門秋紀の長男として生まれた。幼少のころから気性が激しく、12、3歳の頃に剣術や馬術を習うが、師匠の言うことに従わない問題児だった。一方で読書は好み、藩校の崇徳館で儒学を学び、陽明学に傾倒していった。
天保13年(1842年)に元服して秋義と名乗る。河井家は代々「代右衛門」を世襲したが幼名である「継之助」を通称とした。嘉永3年(1850年)すがと結婚。嘉永5年(1852年)に江戸に遊学し、佐藤拙堂や佐久間象山に学んだ。この頃は同じく長岡から遊学中だった三島億二郎や小林虎三郎らと酒を飲んだり江戸の町を見物したりと自適な生活を送った。
嘉永6年(1853年)古賀謹一郎の久敬舎に入門する。継之助は講義をほとんど聞かず写本ばかりしていて、他の門人から「偏狭・固陋」と思われていたという。同年、ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が来航すると藩主であった牧野忠雅は家臣らに広く意見を求めた。この時、継之助の建言が藩主の目に留まり、御目付格評定方随役に任命されて帰藩することとなる。
藩政改革に意欲を燃やす継之助であったが、この人事が気に食わない家老ら上層部からの風当たりが強く、何もできないまま2か月で辞職した。安政2年(1855年)には忠雅の世子・忠恭のお国入りにあたって経史の講義を行うように命じられるが、これを跳ね除けて藩庁からおしかりを受ける。この頃に射撃の練習に打ち込んで上達した。また三島と共に奥羽へ遊歴している。安政5年(1858年)家督を継いだ。
安政6年(1859年)備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。農民出身の方谷を見下すようなところもあったが、方谷の言行一致した振る舞いと藩政改革の成果を見て態度を改め、心酔するようになった。また方谷に学びながら、佐賀藩、長崎、熊本藩なども訪れて、知見を広めた。翌年3月にしばらく横浜に滞在した後、長岡に帰郷。
文久2年(1862年)藩主・牧野忠恭が京都所時代になり、継之助も翌文久3年(1863年)に上洛するが、忠恭に所司代辞任を勧めた。忠恭は承知しなかったが、欧米に対する攘夷実行が決定されると、辞意を決して、江戸に戻った。同年9月、忠恭は老中に任命された。継之助は公用人に任じられると、老中を辞任することを進言した。辞任撤回の説得に来た分家常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、責任をとって公用人を辞して帰藩。
慶応元年(1865年)再び外様吟味役に再任されるとすぐに郡奉行、そして町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間に風紀粛正や農政改革、灌漑事業、兵制改革を行った。
慶応3年(1867年)大政奉還、王政復古の大号令と幕府は廃止され、時代の動きは一気に加速する。長岡藩は新藩主忠訓や継之助らが上洛、公武周旋を行った。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗退、大阪城の慶喜は江戸へ密かに戻ってしまった。それを知り、大阪を警備していた継之助らは江戸へ急ぎ戻り、藩主らを先に長岡に帰すと、江戸藩邸の家宝などの売却。その金で相場の暴落した米を買って、箱館に運んで売ったりして軍資金を増やし、商人であるスネル兄弟からアームストロング砲やガトリング砲、エンフィールド銃など最新兵器を購入して海路長岡に帰還した。この当時ガトリング砲は日本に3門しかなく、そのうち2門を長岡藩が所持することとなった。
新政府軍が長岡に迫ると、継之助は恭順派の拠点となっていた藩校の崇徳館を監視させ、動きを封じ込めて、藩の独立中立を主張して新政府軍と談判、旧幕府軍との調停を申し出た。小千谷の慈眼寺で会談は行われたが、継之助の要求を新政府軍監の土佐藩士・岩村精一郎が一蹴、食い下がった継之助だが、こと決裂に至ると開戦を決意した。
継之助は長岡城奪還作戦で負傷し、峠を越えて会津領の只見村で会津藩より治療に来ていた松本良順に診察を受け、松本が持参していた牛肉を平らげてみせるが、すでに破傷風によって手遅れな状態にあった。継之助は最後が近づいて来ていることをさとり、藩主世子・忠毅の亡命を指示し、外山修造には「近く身分制度などなくなるから商人になれ」と助言した。外山は後に日本の発展を担った有力実業家の一人となった。
松本のすすめで会津若松に向かう途中、塩沢村で死期を悟った継之助は8月15日に火葬の支度を命じ、翌16日の昼に談笑したのちに危篤状態となり、同日午後8時頃、只見塩沢村の医師・矢澤宗益宅にて死去した。享年41。葬儀は会津城下の建福寺で行われた。従僕の松蔵は墓が暴かれる可能性があると、会津のとある松の下に埋葬された。実際に新政府軍は城下の墓所に建てられた仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身は砂石であったため、継之助の生存を疑い、恐怖したそうです。
戊辰戦争後、松蔵によって遺骨は掘り出され、長岡の河合家へ送り届けられ、ここ栄涼寺に再び埋葬された。
継之助の評価は、長岡でも大きく分かれ、英雄と称える人もいれば、町を戦火に巻き込んだ悪人と思う人もいるそうです。継之助の墓石は何度も倒された、と伝わる。
会津に向けて八十里峠を越える際に継之助は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」と自嘲気味の句を詠んだ。
友人・三島億二郎の墓もありましたが、写真が見当たらず、、