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旅の記:2023年9月のツアー㊸備中松山城<現存天守>(岡山県高梁市)

【旅の記:2023年9月のツアー㊸備中松山城】

岡山県高梁市に立ち寄ったのは、そう現存天守12城の一つで、唯一の山城である備中松山城があるからです。この旅3つ目の現存天守。伊予の松山城と備中の松山城を一旅で巡れるとは、、
仁治元年(1240年)備中有漢郷の地頭となった秋庭三郎重信という人が大松山に城を築いたのがはじまりとされ、元弘年間(1331~1334年)高橋宗康が小松山まで拡張した。以後、城主は上野氏、庄氏、そして三村氏となり、戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を含む一大城塞となった。天正2年(1574年)元親は毛利氏から離反して織田信長についた。翌年にかけて毛利氏との争い(備中兵乱)は続くが、最後は小早川隆景により城は落とされ、毛利氏の勢力下に入った。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの後、毛利氏が周防・長門に減封になると江戸幕府によって小堀政次が城番として置かれた。この頃に陣屋(御根小屋)が山麓に築かれた。元和3年(1617年)池田長幸が入城、6万3000石で備中松山藩を立藩する。しかし寛永18年(1641年)2代藩主長常が無嗣子で死去したために廃絶となる。寛永19年(1642年)水谷勝隆が5万石で入り、2代勝宗が天和元年(1681年~天和3年(1683年)にかけて天守建造や大修築を行い、現在に残る形になった。元禄6年(1693年)3代勝美が嗣子なく死去、末期養子にした勝晴も1か月後に疱瘡でなくなり、その弟を養子に立てるが、末期養子の末期養子は認められず、水谷家は断絶となった。この時、城の受け渡しに任じられたのが赤穂藩主・浅野内匠頭長矩で、浅野家家老大石内蔵助良雄が単身で城に入り、水谷家家老鶴見内蔵助と話し合って、無事に開城、城の明け渡しが成った。大石内蔵助は元禄8年(1695年)安藤重博が6万5000石で入封するまでの1年半、城の管理を任された。
安藤氏は正徳元年(1711年)重博の子・信友が寺社奉行に任じられ、美濃加納藩に転封。同年、代わって山城淀藩より石川総慶が6万石で入封するが、延享元年(1744年)伊勢亀山藩に転封。そして亀山藩より板倉勝澄が5万石で入封氏、以後、明治まで板倉家の所領となった。幕末の藩主、7代勝静は陸奥松平藩主松平定永の八男として文政6年(1823年)に生まれ、備中松山藩6代藩主板倉勝職の養子に入っていた。嘉永2年(1849年)に養父の隠居により家督を継ぎ、奏者番兼寺社奉行に任じられた。安政の大獄では、井伊直弼の厳しすぎる処罰に反対して、寛大な処置をとっていたために、直弼の怒りを買い安政6年(1859年)には役職を罷免されたりしています。直弼の死後、幕政に復帰すると、文久2年(1862年)に老中に昇格、混乱する政局の安定化に努めた。第2次長州征伐では、寛大な処置を主張したが、入れられなかった。
15代将軍徳川慶喜の信任は厚く、老中首座兼会計総裁に選任され、幕政改革に取り組む一方、慶応3年(1867年)、前土佐藩主山内豊信(容堂)が建言した大政奉還の実現に尽力した。
鳥羽伏見の戦いの後、大阪城から脱出した慶喜に同行し、開陽丸で江戸に戻った。藩主のいない松山藩では、当初は戦うつもりであったが、朝敵にされてしまったこと、また領民を戦火から救い、板倉家を存続させることを最優先として、恭順することと時まり、勝静は強制的に隠居させられた形になった。慶応4年、江戸にいた勝静は、慶喜が朝敵たされたことで老中職を辞任、逼塞処分を受けた。新政府によって宇都宮藩に移され、寺に軟禁されたが、宇都宮戦争で大鳥圭介率いる旧幕軍に開放され、同じく老中経験者であった小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となった。これにより、明治政府は松山藩に対して態度を硬化させるが、勝静は五稜郭まで旧幕府軍と転戦、同行した松山藩士も土方歳三の指揮下で戦った。勝静の側近であった山田方谷は蝦夷に人を送って、自主を進めたが勝静は受け入れることはなかった。しかたなく取引があり勝静も面識があったプロシア人の商船長ウェーブに礼金1万ドルで救出を依頼、明治2年(1869年)陣中見舞いと称して勝静を船に招いて、そのまま出港して江戸まで連れ帰った。そこで家臣たちから自首を説得されたため、嫡子・勝全と共に自首した。これで松山藩は3万石減封で最高を許され、藩命を高梁藩とした(これは伊予の松山藩と区別がややこしい、ということもあったとか。いまさら、、)。
明治5年(1872年)勝静は赦免される。晩年の明治9年(1876年)には上野東照宮の祇官となる。また協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)を設立した。明治22年(1889年)没。享年66。
城はといえば、明治6年の廃城令により御根小屋は破却、山城は7円(現在の約5万円、安いな、、)で商家に売却された。山頂にあるという不便さが幸いして、建物が解体されることはなかった。しかし荒廃が進み、崩壊寸前までに至ったが、昭和5年(1930年)修復の機運が高まり、高梁市の予算で二重櫓、天守の順で修理がなされた。昭和25年(1950年)旧国宝に指定されていた天守・二重櫓。三の平櫓東土塀が重要文化財となった。昭和31年(1956年)城跡が国の史跡に指定される。昭和35年(1960年)高梁市の管理下に入り、平成6年(1994年)からは本丸の復元整備が行われ、本丸南ご紋、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。

本丸は海抜430m。麓から1時間ほどで登れるそうですが、、車で途中まで行って、後はバスが登城口まで連れて行ってくれます。
バスを降りて、登城開始!
石垣が見えてきました。
大手門に到着。
大手櫓
土塀
三の平櫓跡
三の丸
厩曲輪
二の丸
さ、天守へ。
南御門には看板猫さんじゅーろーがいます。
どこぞの家から逃げ出して、すっかり住み着いてしまったそうです。
天和元年(1681年)に水谷勝宗が造営の天守。慶長5年(1600年)に小堀親子が建てたものを改修した、とも。
同志社大学を設立した新島襄は備中松山出身なんですね、、と思ったら、同じ板倉氏の安中藩士の家の生まれでした。
2階へ。写真が臨場感あるものになってました。
水谷家の守護神羽黒大権現を祀る御社壇。
天守を出て裏手へ。
後曲輪
こちらも重要文化財の二重櫓。
天守と二重櫓の間の腕木御門。
現存天守の中で一番高いところにある、といことでさすがの眺めです。
帰りの大手門。
バスで駐車場へ帰ってきました。

江戸時代はさすがに麓の御根小屋(現・岡山県立高橋高等学校)という藩主の御殿や政庁があるところで、基本暮らしており、山頂のお城には何人かが番をしていたそうです。また平和な時代に建てられたということもあり、そこまで頑丈に作られていないとか。また石垣崩落の危険性はまだあるとして、岩盤斜面監視システムで観測しているそうです。
条件が揃えば、雲海に浮かぶ姿が向かいの雲海展望台から見れるそうで、「天空の城」と称されるとか。とにかく高いところにあるのです。ちなみに歩いて上ると、お城に来た大石内蔵助が休んだという、大石内蔵助腰掛け石があるので、体力に自信がある方はぜひ!!

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