旅の記:2023年7月のツアー⑯一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市)
【旅の記:2023年7月のツアー⑯一乗谷朝倉氏遺跡】
金沢から敦賀への移動の途中、1日空いたので福井で歴史探訪。まずは朝倉氏の本拠地として栄えた一乗谷へ。足利氏の一族である斯波氏の守護代であった朝倉氏は、7代目当主孝景の時代に主家を追いやり実質的に越前国を支配し、戦国大名化していった。
朝倉氏は南北朝時代から一乗谷を本拠地としていたようで、応仁の乱の混乱から公家や高僧、文化人、学者が避難してきたために「北ノ京」と呼ばれるほどに京文化が開花した。
10代当主(戦国4代)孝景(7代目と同名)の頃に全盛期を迎え、人口は1万を超えたという。
天文17年(1548年)に義景が16歳で家督を相続する。若年のために朝倉4代に仕えるスーパー武将・朝倉宗滴(7代孝景の8男)が政務・軍事を補佐していたが弘治元年(1555年)宗滴が死去。朝倉氏の未来に不安が。。
北陸の雄として、混乱の続く幕府からも期待されており、義景も将軍・足利義輝が三吉義継らに殺害された際には、幕臣と連絡を取り合い若狭まで出兵するなどしていいたが、実際に足利義昭が落ちのびてくると、心く迎えるものの、義昭の上洛戦の要求には冷淡であった。このため義昭は、義景が止めるものの、美濃の織田信長を頼って出て行ってしまう。結果、信長は義昭を奉じて上洛、義景は信長から(義昭の命令として)上洛を命じられる立場になってしまう。その血筋をたどれば天皇家に繋がるとされる朝倉氏、プライドが許さずその命令を無視していると、永禄13年(1570年)4月義景に翻意ありとして織田・徳川軍に攻められることになる。一度は浅井長政が信長を突然裏切り義景に付いたことで、追い払うことができたが、同年6月に再度攻めてきた織田・徳川軍に姉川の戦いで敗れ、同盟軍の浅井氏の城の多くを取られ不利な状況に陥ってしまう。その後も、事あるごとに出兵、信長と対峙するがいつも中途半端で、見かねた有力家臣の寝返りもあった。
信長と義昭が決裂すると、武田信玄や本願寺などともに信長包囲網の一角として、大いに期待されたが、この時も大事たところで部下の疲労や積雪を理由に撤退してしまい、信玄がブチ切れたという逸話も。結局信長を追い込むことはできずに、信玄も道半ばで亡くなり、織田軍の主力が浅井・朝倉方に向けられることになった。
天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて近江に進攻、浅井軍と共にこれに対するが、朝倉軍は命令を聞かない者もおりまとまりを欠いていた。同12日、近江一帯を暴風雨が遅い、これを好機ととらえた信長は浅井軍が籠城する小谷城の背後の砦に陣取っていた朝倉軍を急襲し降伏されると、それを知った義景は撤退を決める。それを予測していた信長は機を逃さず自ら戦闘指揮を執って追撃したことで、刀根坂の戦いでは朝倉一門衆や山崎吉家、斎藤竜興など主要な武将が多数戦死した。
義景は同15日に一乗谷城に帰陣したが、手勢はわずか500人まで減っていて、劣勢を知った国内の武将は馳せ参じることはなかったという。18日、信長は一乗谷市街地を制圧、焼き払った。この時越前に攻め入る案内役を務めたのは義景のもと家臣前浪吉継であったという。
義景は従弟で一門衆筆頭の朝倉景鏡に促され、一乗谷を脱出、20日大野郡に移動して仮の御所とされた六坊賢松寺に入るが、ここで景鏡の手勢200に囲まれてしまい、近習らが戦っている中、義景は自刃したという。
石田三成や明智光秀など、再評価される戦国武将もいますが、朝倉義景さんは汚名を晴らす実績もあまり見つからず、ダメ武将の代表のように語られます。
優柔不断だっただけでなく、嫡男を亡くしたことで政務にやる気をなくし、側室の小少将が男児・愛王丸を産むと溺愛し、政務は小少将と女房衆のいうがままになり、さらに政務を顧みなくなったとあります。
そんなことを思いながら、いざ!
山間の細長い谷に、それでも多くの人々が暮らしていたそうです。天下を望むにはあまりにものどかな雰囲気のする場所で、なに不自由のない暮らしをしていたら、わざわざ上洛して危険な目にあうことはないかな、と考えてしまうのもしょうがないのでしょうか。。
他にも見どころいっぱいです。朝倉氏の繁栄と終焉を肌で感じることができました。