旅の記:2023年9月のツアー⑥徳島城(徳島県徳島市)
【旅の記:2023年9月のツアー⑥徳島城】
JR徳島駅のすぐ北側にある徳島城。室町時代、南朝についた阿波の国人・小笠原氏らを討伐するために阿波の守護に任じられた細川頼之が派遣され小城を築いたとされる。当時は猪山城・渭山城と呼ばれていた。
頼之は南朝税を駆逐し、伊予国地頭・河野氏と戦い、四国での勢力を拡大していった。勝瑞城館に拠点を置いた細川氏が継承問題などで衰退すると、守護代の三好氏が台頭する。しかし、京にまで勢力を広げた三好氏も内紛や織田信長の出現で混乱、そのすきをついて長宗我部元親の侵入を許し、元親は四国を平定した。天正13年(1585年)羽柴秀吉の四国攻めにより、一宮城に立てこもった長宗我部軍1万は羽柴秀長率いる4万の兵に攻められ、降伏した。四国攻めでも戦功のあった蜂須賀家政が18万6000国をもって阿波国に入封、当初は一宮城に入ったが、山城は不便だとして、猪山城と近くにあった寺島城を合わせて徳島城を築城を開始、天正14年(1586年)に完成した。
と、かなーりはしょっての築城までの流れです。
家政が城の完成を祝って「好きに躍れー!」とお触れを出したのが阿波踊り祭りのはじまりだそうです。
秀吉亡き後、関ケ原の戦いで家政は息子の至鎮(よししげ)に18騎をつけ東軍に参加させ、自身は大阪城に残った。病気が理由とも、東西衝突を避けるために仲介しようとしたも言われ、毛利輝元には西軍参加を諫める書状を送ったりもしている。結局、家政は逼塞させられ、剃髪して高野山に入った。この際、阿波の領土も豊臣家に返上した。家政の軍勢は西軍に編入されたが、関ケ原の戦いが一日で終わってしまったため、戦いに参加することなく、そのまま東軍に合流、至鎮の指揮下に入った。家康は至鎮に改めて阿波の所領を安堵し、家政は家督を譲り、隠居した。このため徳島藩の藩祖を家政、初代藩主を至鎮とする。
慶長19年(1614年)大阪の陣では至鎮が戦功を上げ、淡路一国を加増され、徳島藩は25万7000石となった。至鎮は内政にも優れ、領民にも愛されたが病弱であったため元和6年(1620年)父・家政に先立って死去した。享年35。家督は息子の忠英が継ぎ、成人するまで家政が政務を取り仕切り、藩政の基礎を築いた。ちなみに大阪の陣では豊臣からの誘いを断った家政だけど、秀吉の17回忌、領内に豊国神社を創建しており、父・正勝の時代から受けた恩を忘れてはいなかったんだなぁ。
阿波はとても豊かな土地で、特に藍の生産では全国の市場をほぼ独占した。他に塩、たばこなど阿波商人が得た利益を合計すると四十数万石になったと言われる。
幕末、藩内は新政府につくか幕府方につくかで混乱したが、戊辰戦争では新政府側として奥羽に兵を送った。しかし、鳥羽伏見の戦いの最中に藩主・斉裕が死去し、14代・茂韶への代替わりがあるなど藩内のごたごたのために少数しか兵を送れず、新式のイギリス軍備を導入していいたが、諸藩から冷評を受けたそうです。
徳島城は明治6年(1875年)鷲之門を除く城内すべての建築物が撤去され、明治38年(1905年)日露戦争を戦勝を記念して城跡の大半が徳島公園として整備され、明治43年(1910年)に一般開放された。
昭和20年(1945年)徳島大空襲により唯一現存した鷲之門も焼失、平成元年(1989年)に復元された。
今回の徳島歴史探訪は徳島城が最後。まだまだ面白そうなところ、行ってみたいところがあるので、また次回!
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