旅の記:2023年9月のツアー㊾岡山城(岡山県岡山市)
【旅の記:2023年9月のツアー㊾岡山城】
ツアー最終日、まずは岡山城へ。2022年のツアーで来たときは改修中だったので、初の登城となります。
ここ石山台(岡山)に南北朝時代には城が築かれていたとされ、戦国時代である大永年間(1521‐1528年)は金光氏が居城としていた。元亀元年(1570年)備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であった宇喜多直家が金光宗高を謀殺し入城、城の改築と城下町の整備を行った。直家は幼少の頃に父が浪人して備前福岡の商人に庇護を受けていたといわれ、街道の付け替えて城下に導き、商人を呼び寄せ、積極的に経済振興の政策を取った。
天正3年(1575年)直家は主家である浦上宗景を、宗景の兄・政宗の孫をおしたてて播磨へ放逐し、事実上の下克上により備前、美作、そして播磨、備中の一部を支配下に置いた。
直家を継いだ宇喜多秀家は豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4000石の大大名となった。秀家は天正18年(1590年)ー慶長2年(1597年)の8年をかけて城を大改修し、「岡山」に本丸を構え、城郭を整備、4重6階の望楼型天守を建て、石高にふさわしい城とした。こののち城は「岡山城」、城下町は「岡山」と呼ばれるようになった。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで西軍の主力として戦った秀家は八丈島に配流となり、代わりに小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城、本丸中の壇を拡幅、外堀などを整備して、城下町の拡大を行った。しかし秀秋は2年後の慶長7年(1602年)に急死し、嗣子がいなかったために小早川家は断絶となった。
慶長8年(1603年)播磨姫路城主池田輝政の次男・忠継が備前28万石を与えられるが、幼少であったため兄・利隆が執政代行として岡山城に入り、検地や経農分離を行い、江戸期の近代的体制を確立した。また西之丸を整備したといわれる。慶長18年(1613年)池田輝政が亡くなると利隆は父の家督(播磨姫路)を継ぎ、慶長19年(1614年)に忠継は初のお国入りをした。忠継は利隆と共に大阪冬の陣に徳川方として参戦したが、帰城後に発病して慶長20年(1615年)に亡くなった。森忠政の娘と婚約していたが、婚姻前に死去したために嫡子がなく、同母弟の忠雄が淡路洲本藩から岡山城に入り家督を継いだ。忠雄は元和6年(1620年)からはじまった天下普請による大阪城改築工事に参加し、その時の経験を岡山城の改修工事にも生かして、現存する月見櫓近辺の石垣などを築いた。寛永9年(1632年)に忠雄が亡くなると、わずか三歳の光仲が家督を継ぐこととなるが、山陽道の要所である岡山を治めるのは難しいという理由で、因幡・伯耆の有する鳥取藩へと転封となり、鳥取藩主であった従兄(利隆の長男)で、こちらも幼少を理由に姫路から因幡鳥取に減転封となっていた池田光政が、入れ替わりで31万5000石で入封した。以後、幕末まで岡山城は光政系池田家の居城となる。光政は、城の堀として旭川本流の流路を不自然に付け替えたため、洪水の原因となっていたのを解消するために、岡山郡代官津田永忠を登用して、放水路として百間川の整備を実施した。光政は陽明学者・熊沢蕃山を招聘し、寛永18年(1641年)には藩校「花畠教場」を開校、寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として関谷学校も開いた。また百間川の整備だけでなく、新田開発や開鑿などの治水を行った。光政の妻は本多忠勝の孫・忠刻と千姫の娘・勝姫で、未亡人となって江戸に帰っていた千姫は光政・勝姫夫妻を気にかけており、大きな洪水があった際には、多大な援助をしたとい話もあるそうです。(光政に変わって姫路に入ったのが忠刻の父・忠政だったりと、この辺りの関係性はおもしろいですね)また岡山城の鎮守として東照宮を勧請していて、これは日光東照宮が地方へ分社された最初の例だそうです。光政は、後世の脚色もあるようですが、水戸光圀、保科正之とならび江戸時代初期の三名君の一人とされています。貞享4年(1687年)からは光政の子・綱政により後楽園の造営もはじまり、14年の年月をかけて完成した。
幕末、9代藩主茂政は水戸藩主・徳川斉昭の9男(庶子)として生まれ、文久3年(1863年)に岡山藩主池田慶政の婿養子となって、家督を継いだ。兄に将軍・徳川慶喜があり、勤皇佐幕の姿勢をとったが、慶応3年(1876年)大政奉還にともない朝廷から上洛を命じられ、翌慶応4年(1868年)大政復古の大号令の後、慶喜追討の勅命が下されると、自らは隠居して家督を養子の章政に譲った。その後岡山藩は新政府軍に与して、藩軍を関東・奥羽・函館まで送った。
明治2年(1869年)版籍奉還により章政は岡山判事となり、岡山城はその役目を終えて兵部省管轄となった。明治6年(1873年)廃城令により取り壊しが始まり、明治15年(1882年)頃までには天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すだけとなった。
昭和16年(1931年)天守が国宝に指定される。昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲で天守と石山門を焼失。昭和39年(1964年)~昭和41年(1966年)にかかて天守を鉄筋コンクリートにて再建。昭和62年(1987年)岡山城跡として史跡に指定。
秀吉の大阪城と同じで、外壁は黒塗りの下見板で覆われていて、烏城(うじょう)という別名がある。発掘により宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土していて、派手好きの秀吉に心酔していた秀家の想いが伝わりますね。また天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのも特徴の一つだそうで、岡山の丘の地盤に合わせたということですが、それがまた独特な存在感を増す要因にもなっていますね。戦前のお城を見たかったですが、再建されたお城もとても美しいです!
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