旅の記:2023年4月のツアー⑧賢忠寺(広島県福山市)
【旅の記:2023年4月のツアー⑧賢忠寺】
広島から倉敷への移動日に福山にて歴史探訪です。まずは放浪大名水野勝成の菩提寺・賢忠寺へ。曹洞宗の寺院で山号を南陽山。
勝成が父・忠重の菩提を弔うために江戸時代初期に建立。勝成、忠重、3・4・5代藩主の墓が現存する。そうですが、お寺の敷地には幼稚園があり、入ることはできませんでした。写真も、あまりパシャパシャ撮ってると不審かな、、と思い、入り口の一枚です!
水野勝成は、家康の母・於大の方の弟である刈谷城主水野忠重の子として生まれ、家康の傘下に入っていた父と共に戦場に出るようになり、徳川秀忠の乳兄弟になった。忠重は信長の引き抜きを受け、武田との戦いに加わる。本能寺の変後は父の許を離れ、家康について天正壬午の乱、小牧・長久手の戦いなどでも活躍するが、眼痛で兜を着用していいないことを父に咎められて喧嘩するなど不仲になり、最後は父の部下を不行状により斬り殺したことで、勘当された。
奉公構(他家への仕官を禁止)を出された勝成は一時無頼の徒と交わり、喧嘩で人を殺めるようなこともあったようですが、秀吉の陣営に入り雑賀攻めに参加するなどして知行を得るも、その知行を捨てて逃亡、秀吉からも刺客を放たれたという。
その後佐々成正、黒田官兵衛、加藤清正、立花宗茂などにも仕えるが長続きせずにいたが、秀吉が亡くなり、上洛した勝成は家康の幕下に加わり、父とも和解、三河国刈谷3万石を相続した。
関ケ原では大垣城の抑えとして出陣し、勝敗が決した後、大垣城降伏明け渡しに一役買っている。石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が大阪・堺を引き回されている時に網笠を被せてやったという。
大阪の陣では家康から「先頭に立って戦うようなことはしないように」と注意されていたにもかかわらず、夏の陣において明石全登の部隊を撃退した際に自ら首級2つをあげた。
大阪の役のあとは旧豊臣領の郡山藩に6万石で転封、そして西国ににらみを利かす要所福山に入封した。
島原の乱にも息子・勝俊、孫の勝貞を伴って幕府軍に加わり、軍議では総攻撃を提案し、原城を攻めた。勝成が前線で指揮をとらなかったせいか、100人を越える戦死者が出たという。
隠居後は藩政に関わりながらも、京都徳大寺で禅の修行をした。1651年福山城内において88歳で死去。
流浪時代には数々の伝説が生まれ、無茶をしていたようです。しかし大名になってからは各領地で良政を行ったそうです。
明智光秀が使っていた日向守を気にせず名乗り「鬼日向」と呼ばれ、宮本武蔵に剣をならったり、とにかくここでは語りつくせない逸話が多すぎる破天荒な武将です!
また水野家は清和源氏の流れをくむ古い家柄で、江戸時代には大名四家、紀州徳川家家老、そして多くの旗本があり、幕府の要職にも就いていますね。