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旅の記:2023年4月のツアー⑯備中高松城(岡山県岡山市)

【旅の記:2023年4月のツアー⑯備中高松城跡】

倉敷から今旅のメインの一つ、備中高松城へ!戦国時代の、いや、日本史の大事件・本能寺の変のとき、秀吉は毛利攻めの最前線、清水宗治を城主とする備中高松城を堤を築いて水攻めにしていた。京からの信長が討たれたという悲報(吉報?)を受けた秀吉は、毛利軍にその情報が渡る前に和睦を進める。講和の条件として、城主・清水宗治は城兵5千の命と引き換えに自刃した。それを見届けた秀吉は世にいう「中国大返し」によって、電光石火の如く東へ取って返し光秀を成敗して天下を取ったのでした。
毛利方に本能寺の変報が入ったとき、吉川元春などは秀吉軍追撃を主張したが、小早川隆景は一度和睦したがらにはそれを尊重するべきという意見により追撃はしなかった。
水攻めをされた城から漕ぎ出て、舟上で曲舞を舞った後切腹した清水宗治。この潔い行いによって「切腹」が武士にとって名誉ある死という認識が広まったとも言われる。

案内板から高松城水攻め時の各武将の陣地が分かります。
秀吉本陣があった石井山方面
西南本面に対峙した吉川元春・小早川隆景ら毛利勢。
7月中旬には「宗治蓮」が咲き乱れるそうです。
本丸跡には
宗治の首塚と
「浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して」という宗治辞世の句の碑。
秀吉が高松城を望むの図
各武将の配置。
本丸に対して、築かれた堤の高さ。
宗治公自刃の跡
うしろには秀吉の本陣

お城の南に2.6Kmにわたる堤をわずか12日間で築いたという。各部署ごとに競わせて報奨を与えることで、やる気を出させたとか。堤の一部(蛙ヶ鼻築堤跡)が残っています。

この鉄柱が堤の高さ

備中高松城、そして清水宗治のエピソードは戦国時代小説でも多く描かれる、とても印象的なシーンです。しばらく感慨にふけったのでした。

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