旅の記:2023年10月のツアー㊴水戸城・弘道館(茨城県水戸市)
【旅の記:2023年10月のツアー㊴水戸城・弘道館】
水戸城は常陸国の国司であった平国香の子孫である馬場資幹により健久年間(1190年~1198年)に築かれとされ、馬場城と呼ばれていた。室町時代に入ると応永34年(1427年)江戸通房に城を奪われて、以後170年間江戸氏の支配が続いた。
戦国時代の天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで、江戸氏は北条側についたため、佐竹氏は常陸一国54万石を与えられて、佐竹義重・義宣親子は馬場城を攻めて、文禄3年(1594年)江戸重道を敗走させた。
義宣は居城を太田城から、馬場城へと移し、入城後すぐに城を大改修して、城名も水戸城に改称した。しかし慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで日和見的な態度を取ったとして、慶長7年(1602年)佐竹義宣は出羽国秋田へ転封させられた。同年、常陸国を重要な場所として家康は5男・武田信吉を15万石で水戸に入れるが、翌慶長8年(1603年)に嗣子なく死去したため、10男頼宣を10万石で入城させている。慶長14年(1609年)頼宣は駿府50万石へ移り、末っ子で11男の頼房が25万石で入城した。頼房は城下町の整備・拡充を行い、二の丸に居館を構えた。天守は幕府に憚って構えず、全体的に質朴な造りは水戸徳川家の家風をよく表しているとされる。
以後幕末まで水戸徳川家の居城となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となった。明治5年(1872年)に東京鎮台の小隊が駐屯し第4分営となる。同年の放火事件により本丸隅櫓を焼失。昭和20年(1945年)水戸空襲で三階櫓を焼失。
弘道館は天保12年(1841年)水戸城三の丸内に第9代水戸藩主水戸斉昭が創設した藩校で、武道だけでなく、幅広い教育・研究が行われた。学問は一生行うものとして、若者も老人も同じ場で学んだとされ、また光圀が編纂をはじめた「大日本史」の影響を受けた水戸学の舞台となり、教育理念を示した「弘道館記」の実際の起草者である藤田東湖により「尊王攘夷」の語がはじめて用いられた。
光圀の思いは引き継がれ、御三家ながら水戸藩は尊王の思想が強かったが、斉昭は極端な尊王攘夷の考えを持っていて、幕府からも疎まれ、安政6年(1859年)安政の大獄では永蟄居を命じられている。万延元年(1860年)桜田門外の変から5か月後、蟄居処分が解けぬまま水戸で死去。享年61。
水戸藩といえば保守派(諸生党)と改革派(天狗党)に分かれて対立していた。天狗党の乱鎮圧後は諸生党が実権を掌握したが、戊辰戦争によって形勢は逆転、天狗党の残党など改革派が続々と帰藩した。諸政党は会津へ向かい会津藩や桑名藩と合流、東北方面で新政府軍との戦いに参加した。しかし元治元年(1868年)9月22日に会津藩が降伏すると、諸生党は他の敗軍と合流して、防備が手薄になっていると考えられる水戸を目指した。その数は500とも1000とも言われる。
諸生党軍の接近をしった家老・山野辺義芸らは兵力を水戸城に集結したため諸生党軍は入場できず、三の丸の弘道館を占拠したために大手門を挟んで戦闘が開始され激しい銃撃戦となった。この戦いで両陣営に多くの戦死者が出て、弘道館は正門・正庁・至善堂を残して焼失し、多くの貴重な蔵書も焼失した(弘道館戦争)。諸生党軍は水戸を脱出して敗走したが、新政府軍の協力を得た追撃軍によって壊滅させられた。
徳川斉昭という強烈な藩主を持ち、幕末、尊王攘夷の急先鋒として藩士が桜田門外の変を起こすなどした水戸藩ですが、その後は藩内の抗争が激化して、表舞台にはあまり出て来なくなってしまいましたね。
弘道館が有していた蔵書の多くは国有となり官立の旧制水戸高等学校が引き継いだが、昭和20年の水戸空襲にて焼失した。現在は弘道館公園として管理されている。