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旅の記:2023年9月のツアー⑲吉田東洋殉難の地(高知県高知市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑲吉田東洋受殉難の地】

文久2年(1862年)4月8日の夜更けに土佐藩参政であった吉田東洋が暗殺されました。下手人は土佐勤皇党の志士で那須慎吾・大石団蔵・安岡嘉助。この日東洋は藩主山内豊範に本能寺の変についての講義を終えて、酒肴に預かって午後10時頃に降りしきる雨の中帰途についた。追手門を出て、後藤象二郎らと分かれた東洋は帯屋町の自宅に向かう途中に暗殺された。那須らは東洋の首をふんどしに包み、思案橋で待っていた他の志士に首を渡したといい、鏡川の河原にさらされた。

文化13年(1816年)長宗我部元親に仕えたという吉田氏の家に4男として生まれた東洋は、兄の早世によって文政6年(1823年)に嗣子となり、天保12年(1841年)に父の死去によって家督を相続した。天保13年(1842年)に船奉行として出仕すると、同年11月には郡奉行になって、13代藩主山内豊熈の進める藩政改革に参与、藩営備蓄の「済農倉」設立や海防等の意見書を進言する。
嘉永元年(1848年)藩主豊熈の死去により無役となると、嘉永4年(1851年)に上方を遊歴、梁川星巌や頼三樹三郎らと会って見聞を広めた。嘉永6年(1853年)15代藩主山内豊信(容堂)に大目付に抜擢されると参与となり、安政3年(1855年)参勤交代に伴って江戸に出府して藤田東湖らと親交を結ぶ。しかし酒宴にて旗本殴打事件を起こし罷免され帰国して蟄居を余儀なくされる。帰郷後は高知郊外に私塾を開き、後藤象二郎、乾退助、岩崎弥太郎など若手藩士に教授した。
安政4年(1857年)赦免されると再び参政として藩政に復帰、富国強兵を目的とした殖産興業・軍制改革を押し進め、開国貿易を是とし、公武合体論を唱えた。しかし、革新的な改革や思想は保守的な門閥勢力や、尊王攘夷派の志士から逆恨みされることとなり、一藩勤皇を目指す武市半平太の土佐勤皇党によって暗殺された。

下手人である那須慎吾は脱藩して天誅組に参加し戦死。共に天誅組に参加した安岡嘉平も戦闘で負傷し、京都で処刑された。大石団蔵は脱藩後、長州から薩摩に渡り留学生として五代友厚らとイギリスへ密留学、明治まで生きた。この暗殺の15日後に龍馬は脱藩したために、暗殺犯としての容疑がかけられた。
情勢が変わり捕らえられた武市半平太は最後まで東洋暗殺には無関係を主張したという。
息子の正春は後藤象二郎が引き取ってそだてたそうです。象二郎も子供の頃に父を亡くしたため、東洋が親代わりになって養育していた。

吉田東洋先生殉難之地。実際にはもう少し南に行ったところのようです。
東洋の私塾「鶴田塾」跡。雪渓寺に行く前によりました。
東洋に学んだ若者たちは「新おこぜ組」と称される一大勢力になった。

多くの人がその才能を認め、俊傑とされたが、やはり性格に問題があったようで、、幕末、開明的な思想を持つ人にあるあるですが。
若いころに口論の末、下僕を無礼討ちにして蟄居させられたり、江戸でも旗本に無礼を働いて罷免されたり。いつか恨みを買い、よくないことが起こるのではと心配する人も多かったようです。
しかし幕末の土佐を代表する人物であったことは確かですね!

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