![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/153213265/rectangle_large_type_2_ca2cc1d6158e281f273755febd9e152a.jpeg?width=1200)
旅の記:2023年10月のツアー⑮胆沢城(岩手県奥州市)
【旅の記:2023年10月のツアー⑮胆沢城】
秋田から岩手県水沢へ向かう途中に、胆沢城へ。延暦21年(802年)に坂上田村麻呂が造営した古代城柵です。前年の延暦20年(801年)2月、征夷大将軍として軍勢4万、軍監5人、軍曹32人を率いて奥羽に出兵した田村麻呂は、同年9月に蝦夷征討を報告している。同年10月に凱旋帰郷して節刀を返上、12月には近衛中将に任命されている。延暦21年(802年)田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として、胆沢城造営のために陸奥国に派遣される。造営には駿河・甲斐・相模・武蔵など東国10カ国の浪人4000人が配された。
同年4月、築城中に蝦夷の指導者であるアテルイとモレが降伏。朝廷軍に押され、北方の蝦夷の族長が相次いで服属したために、アテルイらも進退窮まり、和平交渉の末の降伏と考えられている。田村麻呂は捕虜としてアテルイ・モレの二人を京へ連れて行く際に、その命は保証していたようですが、蝦夷を取り込んで味方にしようという意見に公卿たちは反対、アテルイ・モレは斬られたといいます。田村麻呂が創建に深く関わった清水寺には二人の碑がありますね。
翌年、さらなる征討のために現在の盛岡に田村麻呂を派遣し、大規模な志波城が築かれたが、征討の中止や、度重なる水害によって812年(弘仁3年)に小さな徳胆城に移転したことで、胆沢城の重要性が高まることになる。9世紀初頭、鎮守府が国府のある多賀城から胆沢城に分離移転し、陸奥北部および北方支配の前哨基地として、軍事・行政の拠点となる。815年(弘仁6年)兵士・警備兵合わせて常時700人が駐屯することとなる。10世紀後半頃まで鎮守府胆沢城として機能していたとされますが、9世紀後半にはその権威は形骸化していたとも。
![](https://assets.st-note.com/img/1725514565-sCv3ZMRduIKPNzXgb6mD2t8U.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725514578-8cTCRItdpnSjkEyra13PbOX2.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725514613-3xdpkWQYzfUAr6lHXKZ0ebBP.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725514663-2eBvhVKOS9u8URxTfmr7gAEi.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725514676-il62eABGVJTZXuUgCK9OaIQ7.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725514717-arzkYiwKAXV315CdRg7yuMFG.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725514733-MAyPwNGJ2IjmVphbdstuKvXn.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725514760-B9zhgdLHRqX0IQP2wtTo4xcF.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725514923-Y5Vpzor9n2LiaZt7XT6ICWmM.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725515015-JSv1n6UFelzPON8Aq4t3mkw2.jpg?width=1200)
8月のツアーで行った多賀城、このツアーで行った秋田城、そして胆沢城を巡って、朝廷の東北支配と、東北の人々の抵抗がよく見えてきました。