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旅の記:2023年10月のツアー⑮胆沢城(岩手県奥州市)

【旅の記:2023年10月のツアー⑮胆沢城】

秋田から岩手県水沢へ向かう途中に、胆沢城へ。延暦21年(802年)に坂上田村麻呂が造営した古代城柵です。前年の延暦20年(801年)2月、征夷大将軍として軍勢4万、軍監5人、軍曹32人を率いて奥羽に出兵した田村麻呂は、同年9月に蝦夷征討を報告している。同年10月に凱旋帰郷して節刀を返上、12月には近衛中将に任命されている。延暦21年(802年)田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として、胆沢城造営のために陸奥国に派遣される。造営には駿河・甲斐・相模・武蔵など東国10カ国の浪人4000人が配された。
同年4月、築城中に蝦夷の指導者であるアテルイとモレが降伏。朝廷軍に押され、北方の蝦夷の族長が相次いで服属したために、アテルイらも進退窮まり、和平交渉の末の降伏と考えられている。田村麻呂は捕虜としてアテルイ・モレの二人を京へ連れて行く際に、その命は保証していたようですが、蝦夷を取り込んで味方にしようという意見に公卿たちは反対、アテルイ・モレは斬られたといいます。田村麻呂が創建に深く関わった清水寺には二人の碑がありますね。
翌年、さらなる征討のために現在の盛岡に田村麻呂を派遣し、大規模な志波城が築かれたが、征討の中止や、度重なる水害によって812年(弘仁3年)に小さな徳胆城に移転したことで、胆沢城の重要性が高まることになる。9世紀初頭、鎮守府が国府のある多賀城から胆沢城に分離移転し、陸奥北部および北方支配の前哨基地として、軍事・行政の拠点となる。815年(弘仁6年)兵士・警備兵合わせて常時700人が駐屯することとなる。10世紀後半頃まで鎮守府胆沢城として機能していたとされますが、9世紀後半にはその権威は形骸化していたとも。

行政地区跡。
南門跡
政庁正殿跡
南大路
総面積はおよそ46万㎡
南門跡。2019年に外郭南門両脇の築地塀と南大路の一部が復元された。

8月のツアーで行った多賀城、このツアーで行った秋田城、そして胆沢城を巡って、朝廷の東北支配と、東北の人々の抵抗がよく見えてきました。

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