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旅の記:2023年8月のツアー⑯三戸城・糠部神社(青森県三戸町)

【旅の記:2023年8月のツアー⑯三戸城・糠部神社】

天文8年(1539年)南部氏24代南部晴政の時に、居城としていた聖寿寺館(本三戸城)が家臣の放火によって焼失してしまったため、当地に城を築いたとされる。
晴政、そして息子の晴継が相次いで亡くなると、天正10年(1582年)に晴政の叔父の長男・田子信直(南部信直)が家督を継いで、三戸城(通称・留ヶ崎城)に入った。
信直は子のなかった晴信の長女の婿となって養子となっていたが、晴政と妾との間に晴継が生まれたために、やっぱり我が子可愛さで、晴継を跡継ぎに決めます。信直は一時抵抗したそうですが、妻が亡くなり、あきらめて相続を辞退した。しかし天正10年(1582年)に晴政が病死、そして同年に晴継が13歳で疱瘡を病んで亡くなったため、信直が第26代当主となることになった。この時、一族の九戸政実と家督争いがあり、晴政・晴継父子も暗殺されたというのが有力な説になるほど、激しい対立があった。結局、重臣・北信愛らの支援、また根城南部氏を取り込んで実現した家督相続であった。
天正18年(1590年)信直は小田原征伐に参陣して、豊臣秀吉に所領安堵され、領内の三戸城以外の城館を破却して、同城を居城とした。
天正19年(1591年)に九戸政実の乱(九戸一揆)を平定すると、石垣を持つ近代的な城に普請され、三層三階の御三階櫓が挙げられたと考えられている。
寛永10年(1634年)に盛岡城が完成、居城となると三戸城は城代が預かることになり、貞享年間(1684年~88年)に城代が廃止され、三戸代官の支配になった。

車で山頂まで、助かります。。駐車場が本丸跡とのことです。
現在周辺は公園として整備されている。
大門跡
山全体がお城だった。
温故館。昭和42年(1967年)に建てられた歴史資料館。天守風の建物がありますが、史実に基づかない建築物として文化庁から将来的な撤去を求められているそうです。城跡が国の史跡に指定されているから、、
もちろん歩いても上がってこれるのだと思います
額部神社。南部氏初代光行を祀る。三戸給人であった佐藤連之助によって提唱され、明治11年(1878年)に創建された。相殿には宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀る。
樹齢800年とされるしろや城山の杉。南部の歴史を見てきたのですね。

平成元年(1989年)、山麓に綱御門なる門が復元されたそうです、が時間もなく行けず。。






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