旅の記:2023年4月のツアー㉞総持寺(愛知県知立市)
【旅の記:2023年4月のツアー㉞総持寺】
嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁がこの地を訪れた際に、毒蛇に噛まれて重篤になってしまい、知立神社に祈願したところすぐに治癒したということで、神意に感謝した大師は知立神社の神宮寺として七坊を創建し、その塔頭の一つ玉泉坊が承応2年(1653年)に、当寺住職が寛永寺住職天海僧正に師事したことから、寛永寺の末寺となって寺号を総持寺に改めた。山号は神路山、ご本尊を弘法大師空海自作と言われる流汗不動明王とする天台宗の寺院です。人々を病難苦難から救うために、汗を流してくださっているということだそうです。流汗不動の脇には、こちらは伝教大師最澄作という阿弥陀如来!日本仏教ツートップの作品が並んでいるんですね。
こちらには徳川家康の次男・結城秀康の母・お万の方(長勝院)の生誕地とされます。お万は三河国池鯉鮒明神の社人・氷見貞英の娘として生まれた。家康の正室・築山殿の奥女中として働いていた、とも氷見氏が臣従したとこに浜松城に仕えることになったとも、天正2年(1574年)とにかく家康の手がついて於義丸(のちの秀康)を産んだ。
お万が妊娠したことに嫉妬した築山殿は裸で庭の木にくくりつけたという逸話がありますが、お万は浜松、築山殿は岡崎にいたため、後年の創作とされる。当時正妻には別妻や妾を承知するかの権限があったとされ、知らぬ間に妊娠したお万を追放したということみたいです。妊娠中に家康の重臣本多重次の差配によって宇布見村の中村家で出産した。この時、双子であったとされて、知立神社32代神主の氷見貞愛は秀康と兄弟とされる。
秀康は11歳で豊臣秀吉の養子となるが、天正17年(1589年)秀吉に実子鶴松が生まれると、他の養子と同様に他家に出されることになり、家康の関東移封へのさらなる加増として、北関東の大名結城市に婿養子として入った。この間、お万がどこで何をしていたかははっきりと分かっていないようです。秀康は慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは上杉の抑えとして宇都宮城に残り、その功績を父に認められて、越前国を与えられ北ノ庄城の城主となったために、お万もこれに同行、ようやくわが子と共に暮らすことになる。
しかし秀康は34歳という若さでなくなってしまい、実際に母子が暮らしたのは7年ほどだったといいます。もう一人の息子とされる氷見貞愛も31歳で亡くなっており、嘆き悲しんだお万は家康の許しを得ることなく出家してしまった。そのことを家康は咎めなかった。
元和5年(1619年)北ノ庄にて72歳で死去。孝顕寺に葬られ、永平寺にも分骨された。
秀忠より先に生まれてながら将軍にはなれなかった秀康ですが、彼の家系は格別の家とされ、特に福井松平家は御家門と言われ親藩大名の中でも家格が高いとされる。