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旅の記:2023年11月のツアー㉞耳川の戦い<高城川合戦>古戦場・高城(宮崎県児湯郡)

【旅の記:2023年11月のツアー㉞耳川の戦い古戦場】

戦国時代、均衡の取れていた大友氏と島津氏の関係が、天正5年(1577年)に島津氏が日向に侵攻し、伊東氏を追いやったことで大きく崩れた。
日向を逃れてきた伊藤義祐を庇護した大友宗麟は、天正6年(1578年)島津氏の北上に対抗し、義祐を日向に復帰させるために3~4万と言われる遠征軍を率いて日向に向かった。当初は大友軍が優勢で、耳川以北を制圧すると、これに対し島津義久は援軍を派遣する。しかし領地奪還を目指す伊藤軍に返り討ちにされてしまい、佐土原へと撤退した。
島津義久は本格的に大友領への侵攻を計画し、日向に残る伊藤家家臣団の攻略のために各城への攻撃を開始した。この頃、京都から追放されていた足利義昭が、毛利氏が上洛に踏み切れないのは、大友氏が背後を脅かしているからと考えていたため、大友氏の毛利領侵攻を止めるよう御内書を出している。義昭は、大義名分を得た義久は、各個に城を落とし北上を続けた。
同年10月20日、耳川以北に布陣していた大友軍が南下をはじめ、島津軍が占拠していた高城を包囲し、数千丁の鉄砲と国崩しと呼ばれた大筒で攻撃したが落とすことができなかった。10月24日島津義久は3万の兵を率いて出陣、佐土原城に入る。11月9日、小丸川付近で戦闘がはじまり、混乱の中、戦況は島津軍有利となり、高城に入っていた島津家久も出撃し大友軍本隊を牽制しつつ、高城川の南岸に布陣した。この前哨戦で損害を受けた大友軍は田原親賢ら16人を使者として派遣し、講和を申し出た。しかし大友軍は主戦派と講和派とで対立し、講和が成る前に田北鎮周と佐伯宗天が島津軍を攻撃してしまったために、結局戦闘を続けることとなる。大友軍軍師・角隅石宗は強く講和を主張したが、軍議の席で田北に侮辱され、やむなく攻撃へ参加した。
これを受けて島津義久は諸将を埋伏させ、自ら1万の兵を率いて根白坂に布陣、前衛部隊は大友軍の攻撃を受けながら撤退し、自軍深く引き込むと、伏兵が攻撃を開始し、高城の島津家久や義久自身も参戦した。必殺の「釣り野伏せ」発動ですね。これにより態勢を崩した大友軍は耳川方面に撤退を開始し、この際に佐伯宗天ら多くの武将や兵士が戦死、溺死し、大打撃を受け豊後へと退却することとなった。
一説には熱心なキリスト教信者であった宗麟が、日向にキリシタン王国を建設しようとしていたという説があり、出兵にあたり宣教師を連れているし、実際に攻略した土地の神社仏閣を徹底的に破壊している。この傾倒ぶりが、家臣団の間に不協和音を生じさせたのではないか、とされる。

耳川の戦い、として有名ですが。実際に主戦場になったのは高城川周辺で、耳川は退却する大友軍を追撃したところだそうです。
高城川
川の南側。この先に小丸川。
川を北側に来て丘の上からみる古戦場
天正13年(1585年)敵味方、戦死者を弔うために建てられた宗麟供養塔。
当時の布陣図
高城へ

建武2年(1335年)島津氏4代当主忠宗の4男。時久が足利尊氏からの恩賞としてこの地の地頭に任命された際に城郭を築いたとされる。畠山氏、土持氏を経て長禄元年(1457年)伊東氏の城となる。伊東氏が豊後に退去すると、島津方の山田有信が城主となった。

古戦場方面。
第一空堀跡
メロディー時計台。もちろん最近建てられたものだと。
城の外観。

天正15年(1587年)大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が九州征伐を開始。高城は豊臣秀長軍およそ8万に囲まれるが、1300名ほどの城兵で持ちこたえたという。しかし、島津軍本隊が根白坂の戦いで敗れたため、城主山田有信は息子を人質に出して、城を退去したという。その後、高城には秋月種実の所有となったが、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。

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