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旅の記:2023年11月のツアー㉔泰勝寺跡<細川家墓所・立田自然公園>(熊本県熊本市)

【旅の記:2023年11月のツアー㉔泰勝寺跡】

泰勝寺は慶長11年(1611年)に小倉藩主であった細川忠興が父・幽斎の追善のために建立したのがはじまりで、改易となった加藤家の代わりに熊本藩に入ると、矢代城に隠居した忠興によって小倉から矢代に移された。
熊本藩初代藩主となった忠興の子・忠利も立田山の山麓に祖父・幽斎、祖母・沼田麝香(ぬまたじゃこう)、母・玉子(ガラシャ)を祀る寺を建立し、こちらも泰勝院と名付けた。忠利の死後、2代藩主光尚は天保3年(1646年)に玉子の隣に忠興の墓を建て、矢代の泰勝寺を廃し、立田山の泰勝院に併合して「瑞雲山泰勝寺」と改めた。3代藩主綱利の代に山号を「龍田山」に改称。
初代藩主忠利から9代治年まで藩主は花岡山麓にある妙解寺に葬られたが、10代斉茲、11代斉樹、13代韶邦、また韶邦の弟で藩主の名代として幕末に活躍し、2代熊本藩知事となった護久の墓がある。
明治以降はもう一つの菩提寺である妙解寺と同じく神仏分離令に伴って廃寺となり、細川家別邸として、泰勝寺本堂は神式の祠堂に改めた。そのため細川家立田別邸とするのが正式であるそうです。

泰勝寺跡入口
門を入ると正面に細川家初代藤孝(幽斎)御廟。室町幕府幕臣・三淵晴員の次男で細川晴広の養子となる。天正元年(1573年)から長岡性を名乗る。細川性に復したのは死後、忠興の時代。
幽斎室光寿院(沼田麝香)御廟
細川家2代忠興御廟。立派な武将ですが、妻・ガラシャへの愛、というか執着が激しすぎて、サイコ扱いされることもしばしば。。
忠興室秀林院(ガラシャ)御廟。謀反人明智光秀の娘。秀吉の伴天連追放令の中、天正15年(1587年)に洗礼を受ける。家康と対立した石田三成はガラシャを人質に取ろうとするが、忠興の命により死を選び、キリシタンのため自殺ができず、家老・小笠原秀清が介錯をして、秀清はガラシャの遺体が残らないように屋敷に爆薬を仕掛け、火をつけて自刃した。壮絶!
ガラシャが命を絶つ前にこの手水鉢を水鏡として身支度を整えたと伝わる。
宮本武蔵の墓と、、
2代藩主光尚が京都妙心寺より招いたという大淵玄弘和尚と2代重職で、宮本武蔵に引導を渡したと言われる春山和尚の墓
あくまでも伝ですが、宮本武蔵の供養塔。晩年の武蔵は細川忠利に客分として招かれて熊本におり、屋敷として与えられていた千葉城の屋敷で正保2年(1645年)に亡くなった。享年62。熊本市北区には「武蔵塚」という武蔵の墓がある。
泰勝寺の歴代藩主の墓

寺として存続している加藤清正の菩提寺である妙心寺と比べると、細川家墓所は妙解寺・泰勝寺のこちらも公園の一部として残されているところを見ても、やはり熊本では清正人気が強いことが分かりますね。
肥後細川家は初代藤孝から室町幕府・織田信長・豊臣秀吉と仕え、徳川時代にも小倉藩、そして熊本藩54万石を領して、幕末まで存続したのだから立派ですよね。昭和58年(1983年)には後に第79代内閣総理大臣となる細川家18代当主細川護熙が熊本県知事となっています。

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