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旅の記:2023年10月のツアー㉒福島城(福島県福島市)

【旅の記:2023年10月のツアー㉒福島城】

福島県にはよく来ますが、県庁所在地の福島市に来るのは初めてとなります。県庁所在地のまさに県庁があるのが福島城跡となります。元は伊達家の大仏城とされ、その後杉目(杉妻)城と改称、伊達政宗の祖父・晴宗夫妻の隠居地となった。天正19年(1591年)奥州仕置によりこの辺りが蒲生氏郷の領となると、晴宗亡き後、城に住んでいた妻・裁松院は伊達政宗に従って岩手沢に移る。
蒲生時代には、葛西大崎一機への対応をしくじって旧領を没収され客将となっていた木村吉清が文禄元年(1592年)頃に城を「福島城」と改称して、居城とした。
慶長3年(1598年)氏郷の子・蒲生秀行は若年のため宇都宮に移され、会津120万石に上杉景勝が入封、福島城も上杉領となる。旧領奪還を狙う伊達家との緊張が高まると、勇将・本庄繁長が派遣され城代となった。慶長5年(1600年)には領地に侵攻した伊達政宗と、福島城の北辺一帯で戦いになったという記録がある。同年、関ケ原の戦いで敗れた上杉氏は米沢30万石への減封されるが、引き続き本庄氏が城代を務めた。その後は代官として芋川正親が近くの大森城を拠点として、領地経営をした。
寛文4年(1664年)上杉氏は無嗣断絶の危機を迎え、何とか存続するも福島城のある信夫郡は没収され、天領約20万石を経て延宝7年(1679年)に本多忠勝系本多家宗家6代本多忠国が大和国郡山から福島藩15万石の領主として福島城へ入ったが、3年後には播磨姫路に転封となったため、天領、堀田氏時代を経て元禄15年(1702年)板倉重寛が福島藩3万石で入城、幕末まで約170年間は板倉氏の居城として機能した。
慶応4年(1868年)藩主板倉勝巳は、一度は新政府へ恭順の姿勢を見せるが、奥羽越列藩同盟が結成されると佐幕派に転じた。同年の世良修蔵暗殺には福島藩士も加わっていたという。
同年、元治元年(1868年)7月、新政府軍により二本松城が攻略されると、勝巳は福島城を開城して米沢に避難。同年9月、勝巳は父・勝顕と共に新政府に降伏し、福島城も引き渡されることとなった。明治2年(1869年)板倉氏は三河国へと転封となり、福島藩は消滅した。明治6年(1873年)城跡に陸軍鎮台分営が置かれ、建物のほとんどは破却された。

明治天皇行幸の碑
城跡には福島県庁
県庁裏手には紅葉山公園。二の丸御外庭と呼ばれた庭園だった。
杉妻稲荷神社。城の艮(東北)の守りとして建立された神社。明治の初めに現在の地に移された。
板倉神社。福島板倉家祖・板倉重昌と息子・重矩を祀る。重昌は島原の乱で原城を落とすことができず、知恵伊豆こと松平信綱が到着する前に総攻撃を決行、寛永15年(1638年)銃弾を受けて戦死した。
父の遺志を継いだ息子・重矩は幕府軍の勝利に貢献した。





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