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旅の記:2023年8月のツアー⑳聖寿寺<南部家菩提寺>(岩手県盛岡市)
【旅の記:2023年8月のツアー⑳聖寿寺・榊山稲荷神社】
今回のツアー、盛岡ではライブはないのですが、前述のようにブッキングの都合上、移動日が2日あったので歴史探訪で訪れました。
まずは盛岡藩主南部家の菩提寺である聖寿寺。臨済宗妙心寺派の寺院で開山は三光斎国師。当初は三戸郡小向村にあり初代光行の菩提を弔うために建長6年(1254年)に創建された。寺があった一帯は南部氏の居城となっており聖寿寺館(本三戸城)と呼ばれた。その後、衰退したが南部氏26代当主南部信直が瑞巌寺の僧侶・石門和尚を招いて中興した。ここまではこの旅の八戸からの流れですね!
慶長3年(1598年)信直が盛岡城を開始して、完成したのは孫の28代当主重直の時で、それに伴って諸寺院が北山周辺に集められ、聖寿寺も移転、山号を大光山とした。江戸時代は藩主家菩提寺として繁栄するが、南部家は戊辰戦争で敗れ朝敵とされ、宮城県白石へ転封、多額の上納金を払って再帰するが、当寺は廃仏毀釈の影響もあり大きく衰退してしまう。復興の兆しが見え始めたのは先の大戦後になってからであった。
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他、歴代藩主のお墓があります。
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楢山佐渡は南部家重臣の生まれで、幕末に家老を務め、日本最大規模と言われた三閉伊一揆を取りまとめるなど、武士からも農民からも慕われた。その後は首席家老として藩政改革に着手するが、京都では大政奉還があり、南部藩も新政府につくか、旧幕府に殉ずるかで藩内は大きく揉めた。
鳥羽伏見の戦いのあと、京都に赴任した佐渡は、西郷隆盛や岩倉具視といった新政府側の人々と接触するが、その野蛮な振る舞いに憤慨し、新政府に対抗することを決意したとも言われる。
南部藩内でも勤皇思想をもって、新政府側につくことを主張する人たちも多かったが、これを押さえて奥羽列藩同盟への参加で藩論をまとめた。
奥羽列藩同盟から離脱し新政府側についた久保田藩を攻め(秋田戦争)、佐渡は総指揮をとってよく戦い大館城を落とす。その勢いで久保田城を目指すが、アームストロング砲で武装した佐賀藩兵の到着により、状況は一変、藩堺まで押し返され、膠着状態となる。そんな中、奥羽列藩同盟は戦況の不利により事実上瓦解、盛岡藩も降伏をせざるをおえなくなる。
明治2年(1869年)敗戦の責を負い盛岡・報恩寺にて斬首された。享年39。
辞世「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道」
秋田戦争の際に集落を焼き討ちにしたとして、久保田藩領のこれらの地区では盛岡藩や佐渡への恨みが明治後期まで残ったという。。
南部藩初代のお墓と、南部藩最後の決断をした家老の墓が同じお寺にあるんですね。