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旅の記:2023年10月のツアー⑪平田篤胤生誕の地(秋田県秋田市)

【旅の記:2023年10月のツアー⑪平田篤胤生誕の地】

平田篤胤は江戸時代後期の国学者であり思想家です。安永5年に出羽国久保田藩(秋田市中通)に生まれた。幼少期の史料は少なくはっきりしないそうですが、貧しく不幸な生活を強いられていたようです。寛政7年(1795年)脱藩し江戸にでると、力仕事や下働きをしながら当時最先端の西洋医学や地理学、天文学を学んだ。
寛政12年(1800年)篤胤が25歳の時に備中松山藩士で山鹿流兵学者・平田篤穏に才覚を認められて養子となる。またこの頃に織瀬という駿河沼津藩士の娘と出会い、享和元年(1801年)に相思相愛の恋愛結婚をしている。
篤胤の学問への関心は蘭学や医学だけでなく、対露危機に関する情報収集など多岐にわたったが、享和3年(1803年)に妻が手に入れてきた国学者・本居宣長の本を読んで国学に目覚め、その2年前に宣長は亡くなっていたために、篤胤は夢の中で宣長に入門を許されたとして、「宣長没後の門人」を自称した。文化2年(1805年)に宣長の長男・本居春庭に入門、宣長の著書を読み漁り、独学で本居派の国学を学んだ。この頃、コペルニクスの地動説やニュートンの万有引力が日本にも紹介されており、篤胤は大きく影響を受けたという。享和4年(1804年)には「真菅乃屋」を号して自立、何日間も不眠不休で執筆活動を続け、膨大な量の著書を発表した。文化3年(1806年)真菅乃屋を私塾として門人を取り、最初は3人であった門人も増えていった。この頃はまだ篤胤の見解は宣長の影響が大きく独自性がなかったか、文化8年(1811年)駿河国府中の門人を訪れた時に、「古事記」「日本書紀」など神代にまつわる書籍の内容に統一性がないことへの疑問を呈し、他の諸書も参考にして、正しい内容を確定するべきではないか、というと門人たちの賛同を得て、「古事記」上巻、「日本書紀」神代巻を再構成した「古史成文」を編纂した。
文化9年(1812年)妻の織瀬が亡くなる。悲しみに暮れる篤胤は、死後の霊や幽界への関心が高まり、本格的な研究をはじめることになる。篤胤は地動説や天主教(キリスト教)の天地創造神話、旧約聖書の影響を受けながら、独自の世界観を神道に取り入れて、逆に儒教的・仏教的要素を排除した復古神道神学を樹立した。篤胤オリジナルの解釈や主観によって「古事記」などの古典を再構築したために、文献学的・考証学的手法を徹底していた本居派から見れば邪道であり、亡き宣長を冒涜もするものとして、篤胤は「山師」と非難された。
篤胤は自身の著書を刊行しようとしたが、有力な後ろ盾がなく、自分の学問を広めるために遊歴に出る。文化13年(1816年)と文政2年(1819年)に船橋から鹿取、鹿島、銚子などの東総方面に2度遊歴をおこなった。その間の文政元年(1818年)43歳の時に武蔵国越谷在住の門人で、篤胤の出版事業に経済的援助をしていた山崎篤利の養女と再婚、先妻の名「織瀬」を名乗らせている。
文政3年(1820年)には神仙界を訪れ、呪術を修行して帰ってきたという天狗小僧寅吉という少年を養子に迎えている。文政6年(1822年)学問に専念したいとして、備中松山藩を辞した。文政6年(1823年)関西に旅行して、熱田神宮を参詣した。その後、伊勢松坂を訪れるが、鈴屋(本居宣長の書斎の名)の門人たちはどう篤胤を迎えるかで対立した。なかには篤胤の来訪を妨害するものもいたが、鈴屋一門の後継者である本居大平は、篤胤から批判を受けていたにもかかわらず、門人の一人としてもてなすことにし、篤胤に面会、戒壇は友好的な雰囲気で行われたという。その後、伊勢神宮を参詣し、ついて松坂の宣長の墓を参っている。文政7年(1824年)門人・碧川篤眞と娘・千枝が結婚し、篤眞は平田銕胤と名乗り、篤胤の後継者となる。篤胤はさらにインド学・中国学を学び、暦日や易学にも傾倒したという。天保9年(1838年)久保田藩への帰参が認められ、この頃から実践的な学問が地方の好学者たちに歓迎され、門人が大幅に増加したという。
天保12年(1841年)西洋のグレゴリウス暦と対比して、江戸幕府の歴制を批判した書を出版したとして、幕府に著述差し止めと江戸追放を命じられた。秋田に帰った篤胤は久保田藩より扶持を得て、再び久保田藩士となった。江戸の平田塾(気吹舎)の運営は養子の銕胤に委ねられた。
久保田城下で邸宅を与えられ、国学を教え、門人は増えて70人余にも達した。篤胤は江戸帰還を望み運動したが、それは叶わず、失意のうちに天保14年(1843年)9月11日に病没した。享年68。

従来の神道から見ると、なかなか奇抜な世界観ですが、あいまいな部分を体系的に説明した篤胤独自の神学は、多くの人に受け入れられる根拠があったのでしょうね。最初3人だった門人は553人に達したとされ、「篤胤没後の門人」と称するひとも1300人を超えたという。篤胤の復古神道は広く受け入れられ、幕末の尊王攘夷思想や大政復古運動に大きく影響を与え、さらに維新後にはー篤胤の真意とは離れ復古神道が独り歩きした感もありますがー平田派国学者による廃仏毀釈や神道国教化に大きく寄与したとされます。平田派のこうした政策は、今となっては行き過ぎだったなどの評価もあるようで、しかしながら、篤胤が生きていたらどう思ったかは分からないところですね。また篤胤の幽界研究は、日本の民俗学の基礎となったとも言われるそうです。
本居宣長に夢の中で弟子入りしたり、妻の死をきっかけに死後の世界を研究したり、謎の少年を養子にしたり、と変わった方であったことは間違いなさそうですね。
本居宣長から平田篤胤のラインはまだ勉強不足なので、またよさげな本を見つけたら読んでみます。






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