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旅の記:2023年6月のツアー⑫ラナルド・マクドナルド顕彰碑(長崎県長崎市)

【旅の記:2023年6月のツアー⑫ラナルド・マクドナルド顕彰碑】

ラナルド・マクドナルドは英領時代のカナダで西洋人と原住民インディアンの混血として生まれた。子供の頃、インディアンのルーツは日本人だと教えられ、それを信じていた。有色人種であったため様々な場面で差別を受け、自身の中でルーツである日本への憧れが高まり、1845年ニューヨークで捕鯨船の船員となって、嘉永元年(1848年)船が日本海蝦夷地周辺に来た時に、単身ボートで利尻島に上陸。鎖国していいた日本に不法に入国することは危険と考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装った。島のアイヌ人としばらく暮らした後、役人が来て松前での取り調べを経て、長崎へ送られることになった。本などの所持人は没収され、長崎奉行に謁見、取り調べを受けた後に、長崎崇福寺末寺である大悲庵に収監された。
繰り返し尋問をするなかで、日本文化へ強い興味を持つマクドナルドの教養の高さを知った長崎奉行は、オランダ通詞14人に彼から英語を学ばせることにした。マクドナルドは生徒の中でも、基礎的な英語を理解し、長崎に着いてから通詞を務めていた森山多吉郎の習得能力に特に驚いたという。
翌年に長崎に入港したプレブル号に引き渡されて、アメリカに帰った。この時難破して共に松前から長崎に送られ収監されてた捕鯨船漂流者15名も引き渡されるた。彼ら自身の態度が悪かったために、粗雑な扱いを受けたにもかかわらず、アメリカで日本人の悪口を吹聴したが、終始丁寧な対応を受けたマクドナルドは日本をかばったとも言われる。彼の人間性、またプロテスタントだったこともあり、聖書を所持することも許されるほど優遇され、亡くなるまで日本に好意的だったという。

帰国後も世界を旅し、カナダで起業したり、新天地への調査探検に参加したが、晩年は現ワシントン州のインディアン居留地で暮らし、姪に看取られて亡くなった。
日本では生徒たちが、アメリカなど西洋の国々との折衝の場で活躍するものの、マクドナルドとの関係は取りざたされることもなく、寂しい死であったという。最後の言葉は「Sayonara,my dear, Sayonara」。死後29年経った1923年、マクドナルドの日本での記録をまとめたものが発刊された。

幕末、西洋列強との接触は避けられないものとなったとき、大黒屋光太夫、ジョン万次郎、アメリカ彦蔵など、日本人漂流民で帰国した人たちがそれぞれに得た知識と経験、語学力で幕府を助けたが、ラナルド・マクドナルドのように外国人がわざわざ日本に漂流民として入国し、結果として森山多吉郎のような人材を育て、間接的に海外との交渉を助けることになるというのは、本当に歴史は面白いな!と思わせてくれますね。

幕末でもとても好きなエピソードのひとつです。


昭和62年(1994年)に建立されたラナルド・マクドナルド顕彰碑、と隣には2014年に建立された森山多吉郎(栄之助)顕彰碑があります。二人の出会いは奇跡ですね!
顕彰碑の前、マンションの駐車場あたりが大悲庵のあったところと言われるそうです。

利尻島の上陸地、生誕の地であるカナダ・フォート・アストリアにも顕彰碑があるそうです。利尻は行けたらいいなぁ。カナダは。。




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