旅の記:2023年7月のツアー㉓由利公正<三岡八郎>宅跡(福井県福井市)
【旅の記:2023年7月のツアー㉓由利公正宅跡】
文政12年(1829年)福井城下にて中級武士の家に生まれた三岡八郎は、弘化4年(1847年)福井で行われていた行事「馬脅し」にて躍動、観覧に来ていた藩主・松平春嶽の目に留まり出仕することになる。藩内の経済状況の実態を調べ、市場活性化の必要性を説く。春嶽から財政を任されることになり、福井に招聘されていた横井小楠の殖産興業策に影響を受けると、長崎・横浜にアンテナショップを設け、海外との福井産生糸の独自販売ルートを確立、養殖事業の専売制にするなどして、藩財政の再建に成功する。文久2年(1862年)春嶽が幕府政治総裁職に就任すると八郎は御用人になるが、翌年上洛してみると攘夷派の活動は過激さを増しており、思うように政策を実現できず、春嶽は越前に帰国、政治総裁職も罷免された。
文久3年(1863年)神戸海軍塾資金調達のため福井を訪れた坂本龍馬と横井小楠が八郎宅を訪問、意気投合し挙藩上洛やニッポンの洗たくについて熱く語ったという。
長州征伐の際には藩内が賛成派・反対派に二分されてしまう。両派の提携、将軍家茂の上洛に合わせての挙藩上洛を画策するも、タイミングが合わず頓挫、反対派が主流を占め、八郎は陰謀を企てたとして謹慎させられてしまう。慶応3年(1867年)大政奉還直後に謹慎中の八郎を坂本龍馬が訪れ、旅館・莨屋で新政権の構想について朝まで語らったという。謹慎中であったため立会人として藩士が付き添ったにもかかわらず龍馬は「三岡、話すことが山ほどあるぜよ!」と意に介さなかった。
龍馬はこの福井訪問の約1週間後、京都近江屋で暗殺された。八郎はこの時足羽川の土手を歩いていたが、突風に見舞われて懐中に忍ばせておいた龍馬の写真を落としてしまい、不吉な予感がしたという。
龍馬は亡くなる前に「新政府の財政を任せられるのは三岡八郎」という手紙を後藤象二郎や福井藩の中根雪江に送っており、新政府の要請を受けて参与となり経済を担当することとなる。この頃三岡八郎から由利公正に名を改める。もちろん新政府に資金などあるはずがなく、八郎は太政官札の発行を進言、新政府の信用を得るために「五箇条の御誓文」の起草に参加、発布された御誓文は八郎の「議事之体大意」を原文としていたが、庶民寄りだった内容は朝廷色が強いものに書き換えられていたという。江戸へ進軍する新政府軍の資金調達に現地徴収もやもなしということになるが、八郎は断固として反対、大阪の町人に何とかお願いして20万両を工面し西郷に送った。江戸開城後、太政官札発行の是非について議論されるが、命を懸けて主張し、発行にこぎつけた。その他に積極的な政策を打ち出すも、太政官札の流通が思うようにいかず明治2年(1869年)に辞職するに至った。
明治4年(1871年)に東京府知事に就任。明治5年(1872年)の銀座大火では、東京を防火防災都市とするべく、レンガ造りの建物を多く建てたり、銀座大通りを設けたりと、都市計画を立案・実行した。
同年に岩倉使節団に随行、アメリカ・ヨーロッパを歴訪して政治制度を研究、明治7年(1874年)には板垣退助や江藤新平らと民撰議院設立建白書を提出している。
明治8年(1875年)に元老院議官、明治23年(1890年)に貴族院議員に就任。明治42年(1909年)4月28日、脳溢血のために高輪の自宅で死去。享年79。
「民富めば国富む」という横井小楠の教えを守り、庶民の生活向上に重きを置いた由利公正。太政官札などの政策がうまく行かなかったこともあり、評価の分かれる方ですが、混乱する新政府黎明期を支えたことは確かでしょう。
五箇条の御誓文の原文とされる「議事之体大意」は龍馬の「船中八策」のもとになったとされる。「船中八策」はその存在が疑われていますが、龍馬が帰京して自筆したという「新政府網領八策」のもとになっているともされます。
謹慎中には、保温力の高い竃(へっつい)を考案して、燃料の節約を助けたそうで、「三岡へっつい」と呼ばれ昭和の頭まで福井県下で使用されていたそうです。