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旅の記:2024年10月のツアー㉕三春城(島根県三春町)
【旅の記:2024年10月のツアー㉕三春城】
ライブは全行程を終えて東京への帰路、少し寄り道して三春で歴史探訪。まずは三春中心部の丘陵地にある三春城へ。
最初の築城の時期は不明とされるが、永正年間(16世紀初頭)に田村義顕が現・福島県郡山市にあった守山常から三春に本拠地をうつしたといわれ、田村郡全域を支配した。田村氏は坂上田村麻呂の子孫としているが、真偽は不明。三春の地は周辺を蘆名氏、相馬氏、岩城氏、伊達氏、佐竹氏などの有力大名に囲まれており、力の劣る田村氏はこれら有力豪族たちと血縁関係を結び、また状況によってあっちに付きこっちに付きして、何とか領地を保つ状況にあった。しかし天正2年(1574年)に蘆名氏と佐竹氏の同盟が成立すると仙道地域の小豪族たちも呼応して反田村氏になるという危機的状況に陥ったため、隆顕から代替わりした清顕は一人娘の愛姫を伊達輝宗の嫡男・政宗に嫁がせて、同盟関係を結んだ。
天正12年(1584年)に伊達氏の家督を相続した政宗は仙道進出を繰り返し、田村氏もこれによく協力した。政宗が勢力を広げていく中、天正14年(1586年)田村清顕が跡継ぎがなく死去したために清顕夫人(相馬顕胤の娘)が城主になるという状態になる。田村家中60数名は誓書(血判状)をしたためて一致団結を誓うが、結局は相馬派と伊達派に分裂することとなり、天正16年(1588年)に相馬派が家中掌握のために相馬義胤を三春城に入城させようとすると、伊達派の田村月斎が反撃、撤退させた。伊達政宗はその年に三春城に入って1か月半滞在し、田村領の仕置きを行い、相馬派を一層、田村宗顕を城主とした。これにより田村氏は伊達氏に従属することとなるが、小田原征伐に参陣しなかった(政宗の指示)ために豊臣秀吉の奥州仕置で改易となってしまった。その後は伊達氏、上杉氏、蒲生氏が入るなどしていて、一時的には廃城にもなっている。江戸時代に入ると蒲生氏が嫡子がなく減俸して伊予松山藩へ転じ、入れ替わりで加藤嘉明が会津に入ると、三春城には一族や重臣が配され5万石前後という一般大名並みの所領が与えられた。加藤家がお家騒動で改易となると松下長綱が寛永5年(1628年)に三春3万石に封じられて入城。現在の城郭の基本はこの松下時代に戦国城館的なものから近世城郭に改修された。寛永21年(1644年)長綱ご乱心のため改易となり、翌年常陸国宍戸から秋田俊季が5万5千石で三春へ入封した。秋田氏によって居館が山頂本丸から山麓に移され、三春城はさらに近世的平山城へ生まれ変わった。
秋田氏は幕末まで三春藩主として続き、戊辰戦争では隣接する棚倉城が落ちると、板垣退助らと秘密裏に会談し奥羽越列藩同盟を脱退して、官軍に無血降伏した。これにより逆賊のそしりを受けることなく、落城を免れた。
明治4年(1871年)の廃城令によって廃城となり、兵部省の管轄となり、建物や石垣が取り壊された。大正11年(1922年)に山頂部分が城山公園として整備された。
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本丸から移した居館は現在の三春小学校一帯で、藩校明徳堂の表門が小学校の校門として移築、現存するそうです。
秋田の帰りに三春によれて、秋田氏の歴史の続きが知れるのはうれしいですね!