見出し画像

旅の記:2023年10月のツアー㊲西山荘<国指定名勝>(茨城県常陸太田市)

【旅の記:2023年10月のツアー㊲西山荘】

西山荘(西山御殿)は水戸の徳川光圀の隠居所で、元禄4年(1619年)から同13年(1700年)に亡くなるまで過ごした。自らを「西山隠士」と称して、領内の巡検、文化事業に取り組みながら、「大日本史」編纂の監修にあたったと言います。当時の建物は文化14年(1817年)の火事で焼失し、現在の建物は文政2年(1819年)に再建されたもの。

西山荘入り口にある休憩施設・里桃源
里桃源の庭園
庭園を抜けると
通用門
守護宅。中は資料室に。
水戸黄門シリーズの写真も
大日本史
水戸徳川家家系図
左手は学問所と寝室、中央が御座の間
玄関

水戸徳川家世子として教育を受けていた光圀は大陸の史書に影響を受けて、日本の史書を編纂することを志したという。明暦3年(1657年)明暦の大火により小石川藩邸が焼失すると駒込別邸にて編纂事業を開始した。事業は光圀が亡くなった後も継続されて二百数十年続き、明治時代に完成、全397巻226冊になった。この事業は水戸学という学風・学問を生み、天保期(1830~144年)第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想へと発展し、明治維新の思想的原動力となった。また編纂方針において南朝正統論を唱えていたことで、明治後期に起きた南北朝正閏問題にも影響を与えた。これにより足利尊氏は逆賊、楠木正成・新田義貞を忠臣とする解釈が主流となる。現在も天皇の代数は南朝で数えるのが主流だが、南朝正統に関しては学問的批判もあり、いまだ議論されているところです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?