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旅の記:2023年9月のツアー㊿後楽園(岡山県岡山市)

【旅の記:2023年9月のツアー㊿後楽園】

岡山城から旭川を渡って後楽園へ。日本三名園のひとつで、石川の兼六園、水戸の偕楽園、そしてこれで三名園全部行ったことになります。
後楽園は名君と言われた岡山藩主・池田光政の息子・綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて作らせた庭園で、1687年(貞享4年)に着工、14年の歳月をかけて1700年(元禄13年)に完成した。この間、綱政は足しげく通って、賓客をもてなすために建てた「延養亭(えんようてい)」で自ら工事に関っている家臣たちの労をねぎらうなどしている。工事が始まった頃は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれたが、元禄8年(1695年)頃には、お城の背後にあることから、「御後園」、「後園」と呼ばれるようになった。宝永4年(1707年)には能舞台が完成し、家臣の家族や領民を呼んで、綱政自身が舞って見せることもあったとか。
その後、庭園には管理のための専門の奉行職が設けられて、園内は時の藩主の好みによって、手が加えられていったという。藩主は岡山在城中に休息のためにたびたび訪れたが、幕府の監視が厳しく、客人の接待は城内で行っていたという。幕府だけでなく、各藩が財政難になっていく中で、質素倹約こそ大事とされたので、庭園などで客をもてなすのは贅沢ととられかねない、ということでしょうか。幕末になって幕府の力が衰えると、天保元年(1830年)と天保9年(1838年)に9代藩主・池田斉敏が実父で薩摩藩主であった島津斉興をもてなしたという記録があるそうです。また、日を定めて藩内の人々も園内に入ることができたそうです。
明治2年(1869年)の版籍奉還により岡山城と共に御後園は明治政府の手に渡るが、翌年には再び岡山藩の所有となり、明治4年(1871年)藩知事に就任していた池田章政が日を限って、一般に公開した。この時、名称を「後楽園」に改めた。
明治15年(1882年)財政難に陥っていた池田家は、後楽園を土地は無償で、建物と樹石を有償で譲渡、県有となり岡山県庁の付属地として明治17年(1884年)、一般に広く公開されるようになり
「日本三名園」の一つとして数えられるようになった。県有化には反対の声もあったそうですが、よかったですね。
第二次世界大戦中の1940年代には食糧難から、園内の芝生部分をイモなどの畑に転換したそうです。そして昭和20年(1945年)岡山空襲にて、延養亭など江戸期から残されていた建物の多くを焼失した。
終戦後は進駐軍の宿舎として使用されて、園内に25メートルプールが作られたそうです。進駐軍撤退後は再び岡山県の所有となり、約2億円を投じて景観を復元し、昭和29年(1954年)からは有料で一般公開されるようになり、昭和42年(1967年)には園内すべての建造物の復元が完了した。

正門より
延養亭。昭和35年、築庭時の間取りに復元された。
。花葉の池
大立石。巨大な自然石を90数個に割って運び、組みなおしたって!
茂松庵。築庭初期に建てられた建物の一つ。昭和27年(1952年)復元。
簾池軒。戦災を免れた建物の一つ。
唯心山。後楽園を造った池田綱政の子・継政が築いた小山。
唯心山より。
中の島。
井田。築園当時は、あたり一帯は水田だったそうです。
慈眼寺。元禄10年(1697年)綱政が還暦を迎えた時に、厚く信仰していた観音像2体をまつったお堂。
明治に東京の本邸から遷宮された由加神社と天明6年(1786年)に勧請した稲荷神社があります。
五十三次腰掛茶屋と岡山城。茶屋は幕末から明治にかけてできた建物で、東海道五十三を描いた扁額が掲げられていたそうです。
タンチョウが飼育されていました。

ご紹介した以外にもたくさん見どころがあります。また季節によって、雰囲気は大きく変わるでしょうから、また違う時期に来てみたいですね。三名園すべて夏に行ったな。。

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