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旅の記:2023年6月のツアー⑬高島秋帆旧宅(長崎県長崎市)

【旅の記:2023年6月のツアー⑬高島秋帆旧宅】

寛政10年(1798年)に長崎町年寄の家に生まれた高島秋帆は荻野流砲術を父に学びますが、出島のオランダ人を通じて西洋砲術を知り、日本砲術との技術・体系の格差に愕然とた。秋帆はオランダ語や様式砲術を学び、私費で銃器等を取りそろえて天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。その入門者には肥前佐賀藩武雄領主の鍋島茂義がおり、天保6年(1835年)に免許皆伝を与え、自作第一号の大宝を献上している。
アヘン戦争でアジアへの西洋の脅威を実感し、幕府に砲火の近代化を求める意見書を出し認められ、武蔵国徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)にて洋式の公開軍事演習を行い、その実用性を認めさせ、砲術の専門家として幕府から重用されることとなり、江川英龍などにも伝授することとなり、高島流砲術は広まった。
天保13年(1842年)頭取の任に就いていた長崎会所のずさんな運営の責任者として逮捕・投獄されて、高島家は断絶となってしまう。これは貿易などにより十万石に匹敵する資金力を持つことに、妖怪・鳥居耀蔵が妬みを持ち、讒訴したという噂もありますが、実際に会所の会計処理は周りに影響を及ぼすほど乱れていて、老中水野忠邦が介入しての処理の結果とすることも。スーパー保守的な耀蔵ですから、ただただ西洋式っていうのが気に食わなかったとも。
武蔵国岡部藩に預けられた秋帆だが、その名声を聞いて、諸藩は秘密裏に人を送り、様式兵学を学ばせたという。
嘉永6年(1853年)ペリーが来航すると赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策は間違っているという考えにいたった秋帆は、開国・交易の重要さを幕府に説く上申書を提出している。幕府役職に付き砲術訓練の指導にも尽力したが、慶応2年(1866年)に69歳で人生の幕を閉じた。

秋帆の父・茂紀が別邸として建てた。秋帆は天保9年(1838年)に現在の万才町の本宅が焼け、移り住み、天保13年(1842年)に捕らえられるまでの5年間をここで過ごしたそうです。
木造二階建てで、2階には秋帆が「雨声楼」と名付けた客室があった。

ライブハウスから近く、気軽に歩いて向かったけど、さすが長崎、坂と階段だらけで、いい運動になりました!






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