旅の記:2023年9月のツアー⑱河田小龍誕生地・墨雲洞跡(高知県高知市)
【旅の記:2023年9月のツアー⑱河田小龍誕生地・墨雲洞跡】
高知に着いてからちらほら名前が挙がっています河田小龍。龍馬に世界情勢を教えた方として有名ですね。
文政7年(1824年)軽格の藩士の家に生まれた小龍は幼少のころから画を学び、16歳の頃に藩儒学者岡本寧浦の門下に入った。弘化元年(1844年)吉田東洋に従って京に遊学し、京狩野家9代目狩野永岳に師事した。嘉永元年(1848年)の二条城襖絵修復の際には師と共に従事したそうです。嘉永3年(1850年)に帰国すると、蓮池町に画学塾・墨雲洞を開いた。
嘉永5年(1852年)アメリカから帰国した漁師・中浜万次郎の取り調べにあたった。小龍は藩の許可を得て、万次郎を自宅に住まわせて、寝起きを共にしながら毎日役所に出頭させ、読み書きを教えたり、自分も英語を学んだりしているうちに、お互いに友情が芽生えるまでになったという。小龍は万次郎の話す異国の生活事情に大いに啓発されたといい、大統領が選挙で選ばれるということに驚き、疑いもした。万次郎の話をただ聞き捨てるのは惜しいとして、一切の私見を排除して、挿絵を加えながら漂巽紀畧五巻として上梓し藩主に献上した。同書は江戸に持ち込まれ、諸大名の間で評判になり、後に万次郎が幕臣と取り立てられるきっかけを作った。
侵攻のあった藩御用格医師・岡上樹庵の妻が坂本龍馬の姉・乙女であったことから、安政元年(1854年)龍馬に会った小龍は「貿易によって異国に追いつく事が日本のとるべき道だ」と説いた。龍馬が単純な攘夷論者ではなかった根底は、小龍の教えがあったからでしょう。龍馬は「あなたは人を作りなさい。私は船を作りましょう」と言って、小龍と分かれたそうです。
明治に入ると画集を出版するなど絵師として活躍し、明治17(1884年)年には第二回内国絵画共進会に出品し、三条実美邸に招宴されている。明治21年(1888年)に高地を離れ京都に移住。明治22年(1889年)京都府疎水事務所に庶務付属で採用されて、琵琶湖疎水工事記録画の作成にあたり、多くの絵図を残した。現在では京都府立総合資料館に収蔵されている。明治27年(1893年)内国勤業博覧会外展覧会にて賞を受ける。また広島で明治天皇に御前揮毫の栄を賜った。明治31年(1898年)12月19日に死去。享年75。
龍馬・万次郎との逸話が有名ですが、画家としても教育人としても活躍した方だったんですね。