
旅の記:2023年11月のツアー㊸府内城(大分県大分市)
【旅の記:2023年11月のツアー㊸府内城】
文禄2年(1593年)平壌城の戦いでの失態により大友吉統が改易になると早川長政が大分郡内1万3000石の大名として取り立てられて、大友館を修理して移り住む。慶長元年(1596年)閏7月12日に慶長豊後地震が発生して、館も大きな被害を受けた。慶長2年(1597年)蔚山城の戦いで落ち度があったとして秀吉の勘気に触れ早川長政は改易され、石田三成の妹婿である福原長堯が入封、大友館は地震の影響で建物も倒壊して修復もなされていたかったために、秀吉の指示もあり内府城の築城を開始した。朝鮮への出兵などで築城はなかなか進まず、秀吉が亡くなると慶長4年(1599年)石田三成が失脚、長堯も慶長の役で軍艦として不公平な報告を行ったとして府内は没収されてしまう。そして、早川長政が、こちらは逆に朝鮮での働きには落ち度はなかったとされ、府内城主として2万石で再入封した。長政は慶長5年(1600年)の関ケ原のたたきでは西軍に所属し、東軍の勝利となると改易され浪人した。代わりに竹中重利が3万5千石で入封して城を完成させた。元和元年(1615年)重利の長男・重義が2代藩主となる。重義は長崎奉行に着任、その間に厳しいキリシタン弾圧を行っている。寛永9年(1632年)3代将軍・徳川家光が鎖国令を発すると、重義は密貿易に手を貸していると訴えられて、寛永11年(1634年)嫡子と共に切腹となり、府内藩竹中氏は改易、廃絶となった。同年に下野国壬生藩より日野根吉明が2万石で入るが、明暦2年(1656年)に無視改易となると、吉明の義理の甥にあたる大給松平家の豊後高松藩主・松平忠昭が2万2千石と天領の管理を受けて明暦4年(1658年)に入封氏、以後明治維新まで10代にわたって大給松平氏が治めた。
城は明治初期に東丸・西丸の建物以外は破却され、堀の一部を埋め立てた。先の大戦時、大分空襲によって大手門、櫓3棟を焼失。
現在は城址公園となっていて、本丸跡北西隅に人質櫓と西丸の宗門櫓が現存し、石垣、土塀などと共に大分県の史跡に指定されている。













竹中氏2代府内藩主であった義重は配流となった松平忠直(家康の長男・秀康の子)を迎えている。重義改易後は代わって入った日野根吉明の預人となる。寛永14年(1637年)の島原の乱では、幕府は忠直の動きを警戒して、吉明に帰国を命じている。
忠直は配流の地で寺社の造営や再建・寄進・奉納を行って、神仏への帰依と家屋の安全を思う余生を送ったという。慶安3年(1650年)に死去。享年56。墓は大分市の浄土寺にある。徳川家康の長男の子でありながら、その不遇に不満を募らせて、酒に溺れ、暴虐な振る舞いを繰り返すようになった、、といわれていますが、真偽は分からないそうです。いずれにせよ徳川宗家には邪魔な存在だったのかと。
福原長堯は関ケ原の戦いで西軍として大垣城に入るが、降伏し、蟄居先である伊勢の永松寺で自刃。早川長政は大阪の陣で真田信繫の寄騎として参戦、戦後の消息は不明。