認知する世界を変えたいというエゴと共に
広島県でのワーケーションも3週間が経ち、残り1週間となった。
今回の合宿はRutenにとって、そして僕にとっても様々なことが見えた良い機会だった。
先日、朝から1人で電車での遠出があり、まる一日が電車移動と乗り換えで潰れた。
その道中、色んなことを考えていた。
今年はとにかく力をつけると1月に決めてから目の前のことだけに集中していた僕にとっては、その日の緩くて遅くて広く考える時間が大事だったと結果論だが感じている。
その日、僕がいくつも訪れた無人駅には名前の通り誰もいなかった。
ICカードは使えないどころか、誰もいないし改札もない。
乗り換えで電車を待つにも2時間以上時間がある。そんな状況は初めてで外国人になった気分だった。
そんな未知という少しのワクワクと共に街中を歩いていた。
コンビニがある安心感は否めない。
僕はコンビニエンスに毒されている。
そんなコンビニを横目に地元の喫茶店で昼食を食べることにした。
入ってみると、中にお客さんはおらず、店主のおじいさんとおばあさんがテレビの討論番組を見ていた。
ここにある情報はテレビと新聞のみ、ネットを使わない人が集まる街には殆ど受け取る情報しかない。
僕を見て2人は「お食事ですか?」と準備を始めた。
そして僕はメニューの下から親子丼を注文した。
キッチンからはおじいさんの怒った声。言われるとおりに働くおばあさん。
その時、勝手に閉塞感のようなものを感じた...
僕の中には幸せについてひとつの大きな問いがある。
それは、「幸せの価値観はあくまでも主観であり、俯瞰的に見て評価した幸せは、その観測者の中の評価軸によって決まるある意味エゴなのか」という問い。
当事者の本当の気持ちは、本人にしかわからない。
それを第三者が自分の都合の良いように捉えているのではないかということ。
バリーシュワルツの「情報量と幸福度は反比例する」という言葉のとおり、知っていることや選択肢が多いことが必ずしも幸せだとは思わないし、自分が知っている情報の中で生み出された独自の評価基準で他人の幸不幸を決めていないかという疑問がある。
それを第三者が自分の評価軸で幸不幸と決めて、何か行動をする。
それは仏教でいう喜捨のようなもので、自分のためにしているエゴだとも思う。
エゴと聞くと何かネガティブに感じるかもしれないが、僕はエゴは人間の根源であり、いいことだと思う。
だからこそビジョンもある意味自分のエゴだと理解しながら日々活動をしている。
ただ、死ぬまでエゴイスティックに自分の世界を幸せにしていきたい。
ここでいう自分の世界とは僕の元に情報として入り、知ってしまったこと。
そんな自分の世界にある負に対してはエゴでいいからより良い形に変えたい。
それが自分の人生だと改めて感じた時間だった。