時代を切り取る次のビッグアイデアは、PUBLICな領域から生まれる──松島倫明の仕事術
BNLのインタビューシリーズ「ビジネスネットワークのものさし」は、こんな問いを掲げてスタートした。
今回登場してもらうのは、NHK出版の編集者、松島倫明。
彼は書籍編集者として、主に海外からの翻訳書を手がけている。ベストセラーになったクリス・アンダーソンの『FREE』から『SHARE』、『PUBLIC』と続く共有経済について論じた3部作をはじめ、デジタル時代のパラダイムシフトとなるような印象的な仕事が多い一方で、『BORN TO RUN』、『GO WILD』、『JOY ON DEMAND』などの作品を通じて、トレイルランニングやマインドフルネスをライフスタイルに取り入れることの意義を説く。
松島にとっての“ものさし”は、『PUBLIC―開かれたネットの価値を最大化せよ』の中でジェフ・ジャービスが論じた、プライベートでもない、かといって仕事のプロフェッショナルの領域でもない、パブリックと呼ぶべき共有地のような場所にある。いくつものレイヤーが折り重なったパブリックに自らを開くことが、次のビッグアイデアの着想を呼び込むという。
──松島さんは、手がけた本に書かれていることをよく実践されています。フリーミアムについて論じた『FREE』は、発売時にネットで無料配布して話題を呼びました。ほかにも、トレイルランニングのキャンプに参加したり、鎌倉に移住したり。しかも、そうしたライフスタイルをSNSで発信することにも積極的です。
編集者とひと口に言っても、翻訳編集者の仕事はかなり特殊です。いわゆる編集業務以前に、どのコンテンツを日本に持ってくるかを見定める部分が、業績という意味ではパフォーマンスの5割くらいを決めます。そして、そのコンテンツをどうやって日本で出していくのか、つまり日本での文脈づくりも非常に重要になります。なぜなら、ただ単に海外から持ってきただけでは、日本の読者からすれば何の文脈もないぶつ切りのコンテンツになってしまう。その著者のことも知らなければ、海外でどのような文脈でこの本が読まれているのかということも分からないからです。
文脈づくりというのは、タイトルや装丁はもちろん、イベントなどのプロモーション、さらには自分自身も含めてそのコンテンツをどう受取り、実践するかだと思っています。『FREE』の無料配布はそれがうまくいった例ですし、『BORN TO RUN』に出会って、自然の中を走るのであればもはや東京ではないだろうと思い、鎌倉へ移住することにしました。
そうやって自分のライフスタイルを発信することは、将来の読者がその本を読む文脈を日本でつくっていくことであると同時に、わたし自身にとっての次の仕事への文脈にもなっています。実践し、発信することが新たな出会いや着想を呼び込み、次の関心へと自分をドライブさせてくれるのです。
──文脈をつくることを意識するようになった、きっかけは何かありますか?
原点はやはり、2009年から毎年1冊ずつ出した『FREE』『SHARE』『PUBLIC』の3部作ですね。『FREE』を出すまでは、わたし自身、Twitterのアカウントを持ってはいても、使うことはありませんでした。しかし、『FREE』のプロモーションを通じて、SNSの破壊力をまさに肌で感じることができました。そこには人のつながりによって生まれるいわゆる信用経済や、その後にシェアリング・エコノミーと呼ばれるようなものの萌芽が感じられました。
では、そういった世界について書かれた本はないか。そう思って探して出会ったのが『SHARE』です。ただ、いまでこそシェアリング・エコノミーはマスメディアで取り上げられるまでになりましたが、当時はそうしたものがすぐに日本に根付くのは難しいように思えました。そして、根付くためのポイントは、テクノロジーよりも、むしろ人間側のマインドにあるようにも感じられました。そのことが『PUBLIC』の刊行につながっていったのです。
『PUBLIC』は3冊の中ではあまり売れなかったのですが、ビジネスネットワークを考える上では、いまでも非常に重要な1冊だと思います。プライベートでもない、かといって仕事のプロフェッショナルの領域でもない、コモンズ(共有地)のような領域の重要性について書かれているのがこの『PUBLIC』という本なのですが、そこから生まれるコミュニケーションや仕事の破壊力のすごさを、わたし自身、いま身をもって体感しています。
──というと?
例えば、『BORN TO RUN』を刊行したことでSNSを通じてたくさんのランナーコミュニティと知り合い、たくさんの仲間ができました。一緒に海外のトレイルレースに出たり、ランのイベントを企画したり、海外の事例を取材して日本に紹介したりするんですが、それはもう、『BORN TO RUN』の延長でありながら、それだけじゃない、いわばPUBLICに開かれた活動を続けているわけです。
また、鎌倉に移住したのは『ZERO to ONE』を刊行した直後だったので、IT系スタートアップの方々に興味があって地元の「カマコン」という、いまで言うシヴィックテックのはしりのようなグループの仲間に入れてもらったんです。そうすると、単にITだけじゃない地元ならではつながりというのがそこに横断的に生まれていて、例えばカマコンからスピンオフした、鎌倉の禅文化を世界に発信する「ZEN2.0」といったプロジェクトにも参画しています。
トレイルランもカマコンも、わたしにとって仕事ではありませんが、そこから派生するさまざまな中から、たくさんの仕事が生まれます。ビジネスはビジネス、プライベートはプライベートと区切るより、その間の領域にいくつものレイヤーが重なって、ごちゃ混ぜになっていた方が面白い。そういう場をいかに確保するかが大事だと感じています。
──そうした文脈づくりも手伝っているのでしょうが、松島さんの手がけた本には、読む前と読んだ後とで世界の見え方が変わるような、大きな変節点となっているものが多いような気がします。社会が変わっていっているようにも見えるし、自分自身の生き方を見直さざるを得ないような気持ちにもなるんです。
デジタル化が進む中で、他の多くのものと同様に、本というメディアの立ち位置も変わってきていると思うんです。このネットワーク化された時代の中で、本は従来のようなスタティック(静的)なものではなくなってきている、とわたしは考えています。
あらゆるものがリアルタイムに流れていく時代です。だからこそ、人はその情報の流れの中に楔を打ち込みたいと考えるんだと思います。例えば、ざっくりとひとまとまりに見える情報や思索の塊について、「それってこういうことだよね」ということを、アンカリングしたいと考える。本はそのための重要なメディアになるんです。
なぜなら、本には装丁やタイトルがあるからです。本というメディアの不思議なところは、読者は本の何ページ目の何行目に何が書かれていたかといった細かいことを、まず覚えてはいないことです。その代わりに、装丁やタイトルが記号となって、どんなことが書いてあったかを概念として思い出すことができるし、それをさまざまなものと関連付けることができる。だから、それが共通言語となって他者とのコミュニケーションが簡単になるんです。
そう考えた時に、本はそれ自体としてだけ存在しているのではないことがわかります。何を知りたくてその本を読んだのかとか、読んで何を思い、読んだ後で何を考え、どう行動したのかといった、周縁の情報も含めて価値を持つ。そして、そうしたものの集合が、次に読む人の文脈にもなる。それが、わたしが本がスタティックではないと言うことの意味です。
──周辺情報も含めて価値になるというのは、例えばSNSでシェアされるようなWebの記事も同じと言えませんか?
確かにそうかもしれませんね。ですが、本というメディアはフローな情報と比べて、ずっと足腰の強いものです。わたしが本をつくることで目指しているのは、来週、来月に忘れられるようなものではなく、5年後、10年後に社会がどうなっていくのかというパラダイムシフトを示すことです。先ほど、読者は本の細かいところを覚えられないものだと言いましたが、だからこそなおさら、本をつくる上では「ビッグアイデア」といえるテーマにこだわりたいと思っています。また、それは翻訳書が得意とする、いわば翻訳書に求められる役割でもあるとも思っています。
──5年後、10年後を見据えた本をつくることと、ビジネスとをつなげるのには難しさがありそうです。
もちろん、そのすべてがうまくいくわけではありません。5年後、10年後を見据えているからこそ、翻訳書は早振りしがちなんです。『シンギュラリティは近い』はその典型でした。いまでこそ、「シンギュラリティ」という言葉が話題に上るようになったし、著者のレイ・カーツワイルもシンギュラリティ大学を立ち上げ、グーグルで人工知能の研究をするなどスポットライトを浴びていますが、刊行した2007年は「シンギュラリティ」を日本語で検索しても、まったく引っかからない時代でした。原題そのままでは誰も読まないだろうと思って『ポスト・ヒューマン誕生』という邦題にしたのですが、当時はカルト的な人気の域を超えませんでした。
「手がけた本をいろんなところで見るから、さぞ売れてるんでしょう」とよく言われるんですが、『FREE』以外は爆発的なベストセラーというわけではありません。ビジネス的にいちばん美味しいのはレイトマジョリティーと呼ばれる一番分厚い層を捉えることですが、いい意味でも悪い意味でもわたしにはそこの能力はないんだと思っています。
ただ、部数では測れない価値もあると思っています。バーっと売れて読み捨てられて、3年後に振り返ったら恥ずかしく思うような本を作るよりは、時代を変えたとか、時代を捉えたひとつのキーワードのような本を作りたいと思って、日々取り組んでいます。
──それにしても松島さんの仕事の幅は広いと感じます。一方にはデジタルの文脈があり、もう一方にはフィジカルの文脈がある。しかし同時に、そこには共通した何かがあるようにも感じられるから不思議です。
最近、わたしの仕事の起点として挙げることが多いのが『Whole Earth Catalog』です。1960年代後半から70年代にかけてヒッピーのバイブルになった本ですが、そこにあるのは、「人間の自然回帰」とか「人間性回帰」の思想です。戦後の高度資本主義社会の中で起こる大量生産・大量消費、さらには一人ひとりがそうした社会を回すピースとして教育されていたことに対するカウンターとして、もう一度「ひとりの人間としての個を取り戻さなければならない」という思想が根底に流れています。
『Whole Earth Catalog』はカタログなので、色々なものが並列に紹介されています。キャンプ用品やDIYのやり方のようなものもあれば、最新の物理学の理論や、禅やメディテーション、ヨガなども載っていました。それらはすべて「個を取り戻す」という共通の目的のためにあるものです。そしてその中のひとつとして、デジタルテクノロジーもあります。コンピュータはそれまでひとつの部屋くらいある巨大なもので、それを使えるのは政府機関や一部の大企業に限られていましたが、それを個人が自分の能力を発揮するためのツールにしたのがパーソナル・コンピュータ、というわけです。
──年齢的には松島さん自身は『Whole Earth Catalog』の世代ではないですよね?
わたし自身は1993年に創刊した『WIRED』を通じてそうした思想の影響を受けました。当時の大学の卒業論文のタイトルは「DIGITAL LOVE & PEACE」というもので、カウンターカルチャーや当時の学生運動がデジタルテクノロジーと思想的にどうつながっているかを論じました。
けっきょく、『Whole Earth Catalog』の思想は一気通貫で2010年代までつながっているんです。昨年刊行した『〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則』の著者ケヴィン・ケリーは『WIRED』の創刊編集長ですが、『Whole Earth Catalog』の編集を手伝っていました。デジタルテクノロジーを扱った『FREE』や『SHARE』と、フィジカルなテーマを扱った『BORN TO RUN』や『GO WILD』は、わたしの中では『Whole Earth Catalog』のように等価に並べていいものなのです。
──松島さんが手がけた本が、『Whole Earth Catalog』のような、ひとつの思想にもとづいたカタログになっている?
そうなっているといいなと思っています。実際に、デジタル系の本もフィジカル系の本も、手掛けた本を両方読んでいただいている方がわたしの周りにも多くて、そうした方は得てして自分の中ではそれぞれ違う文脈で買ったと思っているのですが、ひとりの人が両方手に取っているということ自体、やはりその人の中でも両者はつながっている証しだと思います。
インターネットが登場し、SNSによって人々がつながり、誰もが発信できるようになったことで、当時『WIRED』が見ていた世界がものすごく現実化してきていると感じます。カウンターカルチャーとデジタルカルチャーをつなぐ象徴的な存在だったスティーブ・ジョブズこそ亡くなってしまいましたが、現在のシリコンバレーのエスタブリッシュメントは『Whole Earth Catalog』以降の西海岸的エートスを体現しています。グーグルにしてもフェイスブックにしても、巨大な営利企業である一方でその背景には、テクノロジーによって人間が個として持っているパワーを十全に発揮できることこそが正義だという価値観があります。
翻訳書をやっていると、彼らの強さはそうした思想がブレないことにあると感じます。そして翻って、日本のテクノロジー企業が弱いのもそこだと感じます。単にビジネスとして儲かるからとか、技術的に新しいからというだけでなく、テクノロジーは人間を人間たらしめるためのツールとしてある、というブレない思想こそが重要なのではないかと思います。