Zoom革命田原さん主催の読書会(オンラインサロンの作り方)に参加して思うこと
世界を広げる。認知の方法を変える。そういう行為は時に秩序を乱すように捉えられ、暴走と言われることもある。
しかし、そのぶっ飛んだ先で何かを掴む。ちょっとでも掴んだところから、新しい世界をこじ開けていく。
そこには人が集まってくる。そうなると暴走ではなくて発見と言われるようになる。
そこまでは分かる。今まで通りだ。
しかし、そこで、掴むと言ってしまうのはなぜだろう。
なんか掴まないと、 現実性が無くなるような、自分が無くなるような気がするかもしれない。
あとから発見と言われることを期待しているのかもしれない。
きっと、自分の存在性の話かもしれない。
存在を突き詰めて『なぜ存在するのか』と問うても、ほとんど意味をなさない。
その存在の周辺がぼんやりイメージできて、同時代性によって共感を得ることくらいしかできない。
存在とは、それくらい強烈なものだ。
掴むという表現は、存在が無くなるかもしれないという恐怖からきていそうだ。
掴むという身体に引き寄せる感覚は、おそらく支配と暴力と繋がる。
同じところに収納されている。それは身体感覚的にも歴史的にもそうだろう。
では掴まないためにはどうすればいいのか。
存在というのは絶対に消すことができない。少なくとも自分の人生においてはそうだ。
孤独や不安は存在の証だと感じてみる。そうなると、もう存在から逃れることはできなくなる。
世界に存在することを認めてしまえば、もう存在を手放すことを恐れることはない。
手放しっぱなしの一生で、掴んでも掴まなくても同じなのだ。
というか、それを考えることすら必要ない。 必要が、ない。
そうするといつのまにか、本当の友人が隣にいるようになる。
だって、僕がそうだったから。