お隣さんの奥さんの話
私は今の家に引っ越してきて約二年、次の秋からドナウ川の向こう側、ブダに移動します。今の家の様子はこちら。
私にはお隣さんがいます。ハンガリー人のご一家です。複数の自家焙煎コーヒー店を経営しているお父さん(今もそのカフェでこれを書いている)、割腹のいい料理上手のお母さん、お父さんそっくりのお姉ちゃん、お母さんそっくりの弟。
異国の地にいるのに変な感じですが、私の人生の中で一番交流を持ったお隣さんと言っても過言ではありません。日本で住んでいた時にもお隣さんはいたけど、敷地を共有しているわけではないので、たまに見かけると挨拶する程度。今のお隣さんとはベランダを共有しているので、普段は挨拶だけですが、事務連絡(共有の鍵を変えたよ、電気の検針がくるよ)から季節の変わり目のなんてことない話まで、世間話をするという意味では一番お隣さんらしい関係だと思います。
とか、書いているとオーナーがカフェに入ってきたので、挨拶をしておきました(もちろんまさか自分のことを書かれているとは知らないでしょうが)。
お隣さんは、こんなハンガリー語もこんにちはぐらいしか喋れない外国人ががやってきたのに、いつも暖かく接してくれています。子供達も、お姉ちゃんはいつも私に興味津々でこっそりお家の中を覗いていたり(笑)、弟は逆に外国人が怖いみたいで鉢合わせると固まってしまうぐらいのシャイな子で、二人とも可愛く癒されています。私も弟がいるので、自分の子供時代を思い出す感覚もあります。
今日家を出る時に奥さんが、キッチンのドアを開けながら作業していて、いつもこういう時は目があって「おはよう!」とお互い声をかけるのですが、ふと奥さんの生活について、同じ女性ということで考えたくなって、この記事を書こうと思ったのです。
お隣さんの奥さんは、詳しくは聞いたことがないのでわからないのですが、おそらく専業主婦か働いていてもパートタイムで、基本的には朝と晩、子供を送りに行ったり、ご飯を作ったり、洗濯をしていたりしています。
時に世間話をしていると、「ご飯を作っても作ってもすぐに食べられてまたすぐに作らないといけないし、洗濯を何回しても洗い終わらないから大変」みたいなちょっとした愚痴みたいなことも言っていますが、基本的にはとても仲良しで幸せそうな家族なのです。
奥さんの生活を見ていると、他人のための人生だなぁと感じるのです。モンテネグロのお友達のお母さん(同じく専業主婦、この場合は特に女性進出がまだまだ進んでいないからだと思う)を見ていても、旦那さんと子供に捧げる人生だなぁと思うわけです。ちなみに私の母親もそうです。
どちらかというと自分が社会に出てからは働く女性に囲まれてきたので、改めて生活の基盤が他人にあるという人々の生き方を見ていると、どちらが自分に合う生き方なのかなぁと考えたりします。
(ここで注を入れておきますが、別に専業主婦だから自分の生活がないとか、働いているから他人のために生きていないというわけではありません。単純に社会的ステータスを見た時に、専業主婦(主夫)だと家庭の外での社会的立場が曖昧である、働いていると家庭とは別の社会的立場があるというぐらいの感覚です。)
昔私の母親が「働いていないと、結婚して子供ができると〇〇さんの奥さんとか△△ちゃんのお母さんとか、誰かの付属品みたいになる。働いていると、少なくとも「仕事をしている私」という家庭とは違う立場がある」みたいなことを言っていたの思い出しました。
当の母親自身はたまに翻訳家として働いたり、趣味の習い事や付き合いに大忙しなので、家庭とは違うところで私をいくつも持っていて、専業主婦とはいえどうまく家庭外でのアイデンティティの確立に成功しているように私からは見えるのですが、それでも「誰かの私」みたいな感覚があるんだなぁと心に残ったわけです。
しかし「誰かの私」であるって、それってすごく特別なことであって、素晴らしいことだなぁと思うのです。誰かの私であることで、できることってたくさんあるんじゃないかなぁと思うのです。
先月お隣さんの奥さんが、旬の苺を六キロぐらい買ってきて、ベランダに並べて仕分けしていました。私は興味を持ってその様子を見ていたのですが、今から苺ジャムを作るということ。半分はバジルで、半分はルバーブを使って作るそう。私がルバーブのジャムを食べたことがないというと、出来上がりまで時間がかかるけど、出来たらおすそ分けするねと言ってくれました(実際後日、一瓶のジャムをいただきました)。
こういうジャムを作る作業(すごく手間のかかること)一つとっても、自分一人だったらやらないんじゃないかなという気がするんです。誰かのためを思って作るってなんかいいなぁと。
今自分がしていることといえば、研究をして論文を書いたりするわけですが、別にこれは特定の誰かのためにやっているわけでなく、強いていうなら自分のためであって、自分のためが故に別にいつやめてもいいんですよね。
他人のために頑張れるというのは、他人がいないと頑張れないという依存に変わるとよくないでしょうが、そうでなければ自分のために頑張るよりよっぽどエネルギッシュな気がします。
働く女性に囲まれて生きていると、誰かの付属品でない自分をどうにか確立しようと必死に男性と肩を張って競争しがちですが、そういう軸じゃない「誰かの私」というところでもっと唯一無二な存在になれるような。
「お隣さんの奥さん」という言葉を言った時、お隣さんは多分世帯主(ほとんどの場合男性(旦那・父親))であって、なんだか奥さんは世帯主の所有物のような響きがあって嫌う人もいると思うのですが、「お隣さんの奥さん」という立場はそんな単純な従属関係ではなくて、なかなか新たな可能性を秘めてる感じがするのですね。世の中もきっと、その言葉の意味がどんどん変わるように動いていると思うのですが、結局これからの女性の行動次第なのでしょう。
さて私は結局自分が働く私であるべきか、誰かの私であるべきかということを、どちらがいいのかと考えてはじめて、ここまで書いても結論が出ていないのですが、あまりどちらか一択という良くも悪くも白黒はっきりした選択からそろそろ抜け出す時期にきているのかなという気がしてきました。