忙しいとは・『博論日記』
日記を始めた五年前と比べてコツコツと何かを書き溜めることマメさが減ったと言うか、単純に忙しくて疲れているというか、つまるところ全く筆が進まない。毎日何かしらは日記に書こうと思うことはあるのだが、なんだかんだやらないといけないことが多いというか、気が散ってまともに文章を書く集中力がないという方が正しいだろうか。
忙しいとは
忙しいとは便利な言葉で、大体近況を聞かれると忙しいと言って済ませることが多いのだが、よく考えると私は全く忙しくない。特に今は博士の終わりの方なのでほぼ書くだけの作業が多い上、コロナで面談・研究会・講演会・学会などほぼ全ての研究活動がオンラインなので、ネットさえあれば正直どこにいても構わない。それに伴い諸々の移動時間が減ったのでかなり時間に余裕がある。
今の一週間の様子を記録しておこうと思う。
月曜日:ダラム(去年滞在研究した大学)のラボミーティング(隔週)、夕方に民族音楽学の映画鑑賞(半分趣味)
火曜日:三時から指導教員と面談
水曜日:十二時からラボミーティング、一時半からジャーナルクラブ、四時から講演会
木曜日:何もない
金曜日:何もない
実際書き出してみてどんだけ暇なんだと思った。研究に関して他人と時間を共有することがおそらく一週間に五、六時間ほどしかない。大学に行って人にあったりすると世間話をしたりするが、それでもたいした時間はかからない。他の博士課程の院生はどういうスケジュールで過ごしているのかが気になる。ちなみに私は良くも悪くも授業の義務がないので、空いている時間は全て研究に費やすことができる。
もちろんこの空いてる時間ボーッと過ごしているわけではなく(理論上は)、実験の準備をしたり、データ収集をしたり、分析したり、論文を書いたりするのだが、私の場合はデータ収集は完全にラボマネージャーに丸投げしているので、そこの時間はさらにプラスで使える(おそらく心理系の院生だったら普通は自分でデータをとるところが多いのではないだろうか)。
ダラムで会った日本人学生さんが、博士課程って給料は少なくてもまるで社長みたいに自分の仕事とかスケジュールを決めることができてすごいと言ってたのを聞いて、なんだか文句ばかり言っていたがこの生活に感謝しなければならないのかなぁとぼんやり思ったのを思い出した。
考えれば小学校から高校までは毎日朝から夕方まで決まった時間拘束されて、あの時が一番忙しかったような気がする。自由時間が少ないので、放課後の予定は一週間びっちり詰まっていたような気がするし(誰と買い物、カフェ、カラオケなど)、受験前で塾に通っていた時は完全に時間割だらけの一日だったように思う。
働き出してからも同じような感じといえばそうなのだが、仕事の内容や状況によって毎日やることはその場で考えなければならないし、そう言う意味でたとえ一定時間同じ場所にいなくてはならなくても、時間割のような不自由さではなかったと思う(とはいえこれは職種によるだろうが)。
ちなみに高校〜大学あたりは忙しいことが良いような気がしていたし、周りも忙しい自慢をしている人がいたが、今となっては忙しいということは、忙しいこと自体に快感を覚えない限りは、特に良いとも思わなくなってきた。忙しくずっと何かをこなし続けることが正義だと思って長年過ごしてきたので、博士課程で年々堕落し続ける自分を見て嫌悪感を感じることも多かったが、今はむしろ暇でありがたいなと思う。
特に研究とか創作とか何か生み出す人は元来暇でないといけないのではないかと思う。忙しいとは心を亡くすと書くとはよく言うが、私の中では機械のようになるイメージで、つまりは人間的じゃないってことなのではないか。AI研究が盛んな今、必ずしも人間的なことがクリエイティブではありませんという批判がきそうだが、そこは置いておこうと思う。
別に人間的でなくても生きやすかったら何でもいいけど、と思いつつ自分の堕落に言い訳をしているだけである。研究に関して言うと、私の周りで研究を盛んにしている人は総じて暇そうである。と言うかいい具合に隙があるという感じだろうか。自分の指導教員は指導している学生も多い上家庭もあるのでウルトラ忙しいと思うが、忙しそうだから話しかけるのをやめようと遠慮したことは五年間過去一度もない(もちろんすぐに話せない場合も多々あるが、必ずいつ頃になったら話せると知らせてくれる)。忙しい人は話しかける隙もないので、新しいことを始める余白がなさそうに見える。だから自分がたとえ忙しくなっても「いつもあの人暇そうだな、話でも聞いてもらおうかな」と思ってもらえる人間になりたい。忙しくなる日が来ればの話だが。
『博論日記』
ネットの友人にお勧めしてもらった『博論日記』をついに手に入れた。
英語版ならこっちですぐに手に入るかと思っていたがなかなか見つからず、結局他の買い物のついでに日本のアマゾンから購入した。
多分今年博論を書き上げるにあたって何回も読み、その都度感想が異なる気がするのだろうが、今一度読んだだけだと自分は色んな面で恵まれているなぁと思ったのが率直な感想である。働きながら研究しなければならない、数ヶ月連絡を返さない指導教員(人文系では普通なのかなぁ)、まだ博論書いてるの?と容赦なく聞いてくる親戚とか、そう言う環境にいたら辛いよなぁという同情の気持ちで溢れる。
博士に入ったばかりのラボミーティングで、ポスドクの人が何かの拍子に「博士論文って書いてもほぼ他人に読まれることないけど」と言っていたのを思い出し、他分野はわからないが少なくとも心理学ではおそらく正しい。一般には博論の一部を科学論文として出版することで読まれるので、研究したことが誰の目にも触れないわけではないが、博論自体を最初から最後まで読むのは、自分と、指導教員と、博論の審査委員の先生たちぐらいではないだろうか。それと自分の熱烈なファン(もしいれば)。
博論って何なんだろうか…もちろん博士号の要件なので、これをもってして博士であることを証明するブツなのだろうが、極論いえば何を書いてもいい。強いていえば他人の仕事をパクったり嘘をついたりしてはいけないだろうが、博論のコアとなるものが未だによくわからない。
よくわからないものを少なくとも三年以上かけて書き上げるのだから一部の人が発狂するのもわからなくもない。『博論日記』でも頭で思い描いている博論と実際の博論の対比が面白く描かれていた。完璧主義であればあるほど、頭がおかしくなるような気がする。自分はもうおそらく心が老いてきてこだわるのもしんどくなったので、ただ早く死んで楽になりたいという気持ちである(この仮説によるともしかしたら数年早く博士をやっていたらもっと辛かったかもしれないし、数年遅く博士をやっていたらもっと楽だったかもしれない)。