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私のなかにある美学

子どもの頃、読書感想文は毎年、賞をもらっていた。自分が感じたことではなく、大人が喜びそうなことを書いていたから。「大人って単純だな」と思いながらも、その単純な大人から表彰されることはまんざらでもなかった。

同じシチュエーションで「何を書けば大人が喜ぶかはわかるからこそ、絶対に書かなかった」のが伊皿子りり子さん
私のライティングの師匠であるさとゆみさんや、読書の師匠だと勝手に思っている近藤康太郎さんの書籍を複数担当されている編集者さんだ。

「ああ、違いはここか」
昨夜、スタートアップカフェ大阪で行われた、りり子さんのトークイベントが始まって早々に、チクッと何かが私を刺した。


同じ年月を生きてきたはずなのに、どうしてこうも発するものの重み、深みが違うのか。
物事の捉え方、読んでいる本、好きな花・・・・・・。
りり子さんが発するものを目にする度に、「すごくステキ」だけでは済ませられない、嫉妬のような、劣等感のような、居心地の悪い何かを感じていた。

そして、昨日も。
子どもの頃、大人が何を書けば喜ぶのかがわかるところまでは似ていた。なのに、私はそれを書き、りり子さんは書かなかった。
私になくて、りり子さんにあったもの。それは「美学」だと思った。


りり子さんは価値観に根拠なんてないと言う。自分の価値観に対するアホみたいな自信の根拠は「自身」である、と。自分の美学に適うかどうか、それ以外に何がいる?ってことなのか。

なんやの、かっこよすぎるやん。ずるいやん。

これがいい!これは嫌い!自分の直感を信じていい。理由なんていらない。私にとっては嘘みたいな話を「フフフ、そんなん当たり前やで」って感じで教えてくれた。


この考え方は、りり子さんの本づくりにも反映されている。
著者ご本人の一般的なイメージとは違う側面(その人にとってのB面)を本にするために企画を立てるそう。
自分がおもしろいと思うから。だから、本にする。

潔くて、美しい。
まさにユリのようではないか。
ああ、悔しい。


私はもっと自分自身を信じたいのだと思った。
周りの目とか、ありもしない正しさとか、そんなものにぐらぐらせずに、自分の感じているものをそのまま信じたい。

「美学」なんてものは、選ばれし人だけが持てるものだと思っていた。でも、私なりの「美学」を意識してみよう。
悔しい気持ちがあるのは、私のなかの「美学」がここにおるで!ちゃんと信じてよ!って騒いでいるからな気がするから。

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