電車内のベビーカーで、肋骨2本折った話
「緊急停止します」
秋葉原駅を発車したばかりの電車内に
機械的な音声放送が流れた。
駆け込んだ人の荷物がはさまったのだ。
午後6時過ぎの車内はぎゅうぎゅうだった。
あつこは吊り革につかまって立っていた。
ななめ左前には30歳くらいの夫婦2人が座る。
彼らの前には、1歳半ほどの女の子が乗ったベビーカーがあった。
緊急停止の瞬間、まわりのすべてがグラリと動いた。
大きな力で、進行方向に放り出される。
隣に置かれていたベビーカーの持ち手に
左胸よこを強く打ち付けた。
ーーー
その瞬間、女の子が気になって
「大丈夫?」と声をかけた。
きょとんと、なにごともないような顔をしている。
しかし、自分が大丈夫ではなかった。
けっこうな力で、持ち手が左胸にくい込んだから。
右手のひらを、左ワキの下にそっとあてる。
にぶい痛みをじっとこらえた。
電車はその場に2分ほど止まると、動き始めた。
若い夫婦は何も言わずに座っているだけだった。
ーーー
「ろっ骨、骨折してますね」
メガネの先生がレントゲン画像を見ながら言った。
3日経っても痛みがひかないので
整形外科を受診したのだ。
63歳にして、初めての肋骨骨折。
「ベルトで固定して、普通に生活してください」
ーーー
ところで、電車内のベビーカーだが。
ベビーカーを押すママだって外出したい。
電車にも乗りたいだろう。
あつこの娘たち(はるちゃん、なっちゃん)はともに一児の母だ。
はるちゃんの子供は5歳で、なっちゃんの子供は1歳半。
なっちゃんは、現在ベビーカーとともに電車に乗っている。
使うのは専用スペースだ。はるちゃんが、妹のなっちゃんに使い方を教えていた。
●ホームのどこで待っていればベビーカースペースにすぐ乗れるか、あらかじめ調べておく
●ラッシュアワーは避ける
●スペースに置けるのは2台。ホームで3台目になるときは別の乗車口に移動して待つ
追加アドバイスとして。
●ベビーカーを使えるエレベーターが駅のどこにあるかを調べておく。
はるちゃん「新宿も渋谷も、目的の改札口にたどり着くためにたくさん歩く。
いったん別のホームに移動して、さらに歩いた先にあるエレベーターを使わないと、行きたいところに行けないこともある。JRだけでなく、地下鉄もいっぱい歩くよ。」
ーーー
山手線には各車両にフリースペース(ベビーカーや車いすのためのスペース)がある。せっかくの場所なのに、人が寄りかかって占領している場合が多い。
そうなると、なっちゃんは何も言えない。
不便な気持ちを抱えながら、別な場所に移動する。
なっちゃんは、やさしい。
おとなしくて、言いたいことも我慢してしまう弱虫さん。
電車内で声をかけられないのも、もっともなのだ。
そんな姿が歯がゆく、じれったく思うことがよくあった。
おばあちゃんであるあつこは
「申し訳ありませんが、ベビーカーにスペースを譲っていただけますか」
と声をかける。
「ありがとうございます」と、お礼も忘れない。
ばぁばは、強いのだ。
ーーー
「あー、これ、2本折れていますね」
とメガネの先生。
えええええ、ホントか。
1ヵ月半経ったのに、なかなか左胸の痛みが消えないので、再受診したのだ。
「レントゲンの角度が違っていて、わからなかったんですね。
肋骨は薄いので折れやすいんです。
時間はかかりますが、治りますから。お大事に」
ーーー
骨折が2本だったとわかってから、3週間ほど経ったある日。
はるちゃんはなっちゃんと一緒に電車に乗った。
なっちゃん、スペースに立つ30代前半くらいの男性に
「すみませんが、ベビーカーをとめても良いですか」
と声をかけた。
男性は無言で移動した。
「ありがとうございます」
はるちゃんは目を見張った。
あつこは話を聞いて、たまらず電話した。
ーーーー
なっちゃん「ママの肋骨が2本折れてるって聞いたから。
ベビーカーが、思わぬけがの原因になっちゃったんだものね」
なっちゃん「もうひとつ、気が付いたことがあるの。
話しかける勇気は、やさしさにつながると思う。
自分がゆずってもらったぶん、違う人にわたしも親切にできるから」
ーーー
電話のあとに来たLINE。
こんな言葉を聞ける時が来るとは。
もう、肋骨の3本や4本や5本、折ったってかまわない。
実は、、、なっちゃんのおなかの中に
2人目のあかちゃんがやってきた。
まーくん(1歳半)は、5か月後にお兄さんになる。
これからは2児の母として、強くなっていくのだろう。
なっちゃん、ずっとずっとずっと応援しているよ。体に気をつけて。
元気な赤ちゃんを産んでね。