神戸に帰った日のこと。主に父のこと。
先日の帰省のこと。二日目の朝、神戸へ移動した。ダイワロイネットホテル京都駅前は地下道で京都駅につながっているので、便利である。以前は八条口を使っていたが、こちらの方が良い。しかも朝食はベトナム料理『ニャー・ベトナム』のブッフェ付だ。胃腸を悪くしているので今回は食べなかったけれど。そういえば最近はバッフェっていうらしい。ビュッフェ、ブッフェ、バッフェ。
JRの新快速で神戸方面へ向かう。スピーカーから流れる車内アナウンスの音量が、耳がきーんとするくらい大きい。耳せんをする。こんなに大きかったっけ。
地元駅前に軽装の父が待っていた。黒いクラシックスタイルのBMWが停まっている。
「あれ?車変えた?」
「せやねん外車に乗りたなってな。うそうそ。あっちの方に停めとうから」
今は嘱託で働いているが、フルタイムの定年を迎えた年に、父は母に黙って新車を買った。どうせバレるのに、なぜ黙っていたのだろう。母はマンションの管理人さんに「駐車場の空き、出ましたよ」と言われて初めて、車が来ることを知ったのだそう。実家は山の上ではあるが、阪急の駅まで徒歩10分、JRまで15分。車がマストな地域ではないし駐車場代は高い。母が怒ったのもわかる。
ここまで書いて、昨日Twitterで見た『妻のトリセツ』というバカげた本のことを思い出した。アップされた画像には、その本の一文が載っていた。
『心の通信線を使った女性脳の言葉は、時として男性脳の予想を超えた意味を含んでいることがある。第1章の終わりに、「心と裏腹な妻の言葉」を翻訳してみよう。』
写し書きをするだけで呆れるが、脳に男性も女性も無い。人間が持つ脳を使って会話することと、時々忍耐力(男女ともに)が必要なだけだ。あれを読む時間を、会話の時間にあてれば良い。会話ができないほどこじれているなら、手紙を書いたりカウンセリングを受けたらいい。どうして勝手に他人が翻訳(?)した言葉を信じて、そばにいる人の言葉を聞こうとしないのか。
ついついあの本への怒りを再燃させてしまった。
若い頃は口達者に母を言い負かしていた父が黙って車を買っていたことで、父という人間の変わりようを見ることができて、わたしにとっては面白い事件だった。
実家では胃腸の悪いわたしたちのために、母が湯豆腐やあっさりとした蒸し鶏や茶碗蒸しを用意してくれていた。料理上手な母の血をまったく受け継がなかったのが残念だ。父がめったに乗らない国際線の話を嬉しそうにしている。ああいううんちく披露タイムが若かったときは嫌だったが、今ではわたしがうんちく好きな父似であることを自覚している。わたしも食卓について早々にうんちくを漏らしていたらしく、母から
「口ばっかり。あ、ごめんごめん(笑)」
と突っ込まれたのだ。
親は病気になっても検査に行っても教えてくれない。数年経ってから実はねと言われることがあり、困っている。この冬の帰省では両親ともに顔色がよくて、ホッとした。
湯豆腐の鍋の熱気でぽかぽかの実家をあとにして、新幹線の新神戸駅まで父がまた車で送ってくれた。30年前、母方の祖父に借りたローレルで、田舎道とはいえ一般道で時速100キロ以上を出してカンカンカンと警告音を鳴らし続けていたスピード狂だった父はもう丸くなって、ゆったりとオレンジ色の車を走らせてくれる。灘の、わざと斜めに作ってある喫茶店を通り過ぎ、懐かしい神戸市バスの停留所をいくつも通り越し、懐かしいと思うのは地元を出たわたしの感覚なのであって父に言わせると古臭いデザインのまんまだ、とのことだが、ゆったりゆったりと駅前に到着した。
時間さえあれば神戸の街をのんびり散歩したかったなと思いつつ父に礼を伝えると、ちっちゃな父は運転席にすっぽりとおさまって、軽くうなずき、行きよりもスピードを出して帰っていった。