酒断ち日記2 暇と読書
5/16(日) 9日目
昨晩、僕が禁酒日記をアップした瞬間に酒飲みの友人Uがこれ見よがしに赤ワインを飲みながらビデオ電話をかけてくる。
「酒飲んでないから話に勢いとキレがないんじゃないの?」と散々煽られる。たちが悪い。
朝起きて、日曜日の定例行事となった友人Mとのランチに向かい禁酒中であることを伝えると、
「一週間はすごいなあ、自分もしようかなあ」と感心されたが直ぐに、
「奢ってあげるからビール飲もうよ」としつこく誘われる。実にたちが悪い。
夕暮れ時、霧雨に当たりながら煙草を買いに伏見の周辺を歩いていると、知らない人から電車賃をねだられた。人生二度目の経験だ。
これは人の善意につけ込んだ古典的な寸借詐欺と言われているが、要は乞食である。
それでも詐欺なんて表現がされるのは自分のことを、人を乞食と差別する悪人だと思いたくないからだろう。
彼を乞食にした過去の悲しみや、彼を待ち受ける未来の苦しみを勝手に想像して傷つかぬよう、「彼は嘘つきな加害者で、私は正直者でか弱い被害者なのだ」と決めつけて目を逸らすのだ。
これが差別でも暴力でもないとすると、一体何になるのだろうか。
だからと言って、全ての出来事と人類に対し真摯に平等に向き合うべきだ、と言うのも無理がある。そんなことは絵空事だ。
初めから、人一人が抱えきれる他人の人生の総量というものは決まっている。
それが恋人であれ家族であれ親友であれペットであれ、人が愛して責任を持って見守ることのできる人数は限られていて、その範囲を超えたところでの振る舞いが、時に人を利己的で、冷徹で、無関心な悪人にしてしまうのだと思う。
では、誰にも見守られずに流れる涙はどうすれば良いのだろう。
昨日も今日も明日も今も、誰にも知られないまま生まれては消え去っていった無数の涙たちが確かに存在していたというどうしようもない事実に、僕らはどう向き合えば良いのだろう。
その答えは、きっと祈りだ。
誰かの手から零れ落ちてしまった涙たちが、傲慢な世間やジャーナリズムに蹂躙されてしまうことなく、詩や文学の力によって救われていることをただ祈る他ない。
例え、無責任で冷たいやつだと言われたとしても、今の僕にはそれ以外思いつかない。
と考えていたら夜になり、丁度Sから連絡が来たので、テイクアウトしてもらったダンダダンの餃子を食べながら一緒にガハガハ笑い合うことにした。
ついでにNetflixで『転校生ナノ』と『ラブ、デス&ロボット』を観る。
飯が美味けりゃそれで良い。
5/17(月) 10日目
例に漏れず酒飲みの友人から一人、「自分も禁酒します」と宣言が送られてくる。
僕の最短記録、2日を破るかどうか見ものである。
一週間を超えるようならば、お祝いにビールでもご馳走してやろうと思う。
5/18(火)11日目
仕事で黒のマッキーを使っていると、杏仁豆腐の匂いがすることに気付く。
気になってネットで調べてみると、「杏仁豆腐ってマッキーの臭いがしませんか?とても食べる気になりません」と訴えている人がいた。
なるほど、そうきたか。
5/19(水) 12日目
新垣結衣と星野源が結婚を発表したとき、僕は一階の工事業者に再び家の水道を止められてトイレで困り果てていた。
5/20(木) 13日目
酒を飲まないとなると、本を読む時間が増えてくる。
相変わらず深夜まで仕事に追われているが、数年の間読もう読もうとして積読されていた
『Netflixの最強人事戦略』を昨日から読み始めたりする(胡散臭いタイトルだな本当に)。
そういえば20歳前後の頃、ひとりで過ごしていても遊び歩いてなくても、寂しくもなんともなかった。それは純粋な娯楽として本を読んで過ごしていた時と重なる。
寺山修司が『ポケットに名言を』の序文で、
言葉を友人に持ちたいと思う時がある。
それは、旅路の途中でじぶんがたったひとりだということに気づいたときにである。
と書いたように、読書という行為はとりもなおさず、言葉と友人になろうとする試みなのかもしれない。
言葉を友に持つと良いことは、人のようにサヨナラなんて約束せずに、期待通り永遠に寄り添ってくれるところだ。
LINEや電話をし続けなくても、それは思い出すだけで勝手に心を満たしてくれる。
そう考えると、アイドルやアニメのキャラにハマることと、読書に浸かることの違いがわからなくなってきたので、
胡散臭い本を読むのは止めにして『らんま1/2』のシャンプーで心を満たすことにした。
とてもかわいい。
5月21日(金) 14日目
月曜に禁酒宣言がきた友人から、「負けました」と連絡が来る。情けない奴だ。自己肯定感があがった。
Netflixの本を読み終えて、シリコンバレーに犯されてしまった脳みそを洗い流すために、國分巧一郎の『暇と退屈の倫理学』を読み進める。
母親から口酸っぱく「バランス良く食べなさい」と言われてきたので、最後は嫌いな食べ物を水で流し込むようにしてNetflixの本を読み切ったけれど、やはり『暇と退屈の倫理学』のような、
親しい友人と摂るご馳走のようにスルスルと身体の中に入ってくる本を読む時間が一番好きだ。
たまに不味い飯を食うと、美味しい料理の有り難みが一層、感じられる。
この本は、女子大(名古屋で最も治安の悪い繁華街の名称)のクラブのバーカウンターで酔っ払っている時に、クラブ友達のOさんが自分にとって大切なものだと紹介してくれた本である。
人は食べたものでできているというのと同じで、人は読んだものでできている。
好きな本を紹介するということは、自分を形作る裸の思想や価値観をさらけ出すことだ。
従って、読み進めていくうちに段々と、普段酔っ払った状態でしか顔を合わせないOさんとシラフで膝を突き合わせている感覚がしてきて、気恥ずかしくなってきてしまったので途中で止めて、Netflixで『転校生ナノ』を最後まで観る。
人と親睦を深めることに、必ずしも対話は必要ないのかもしれない。
5月22日(土) 15日目
ノンアルコールビールの面を見ることすら嫌になってきた。とにかく不味い。炭酸水で宅飲みを乗り切る。
シラフの世界を徐々に知れてきたので飽きてきた。当然のことだけれど、酒があってもなくても悲しいことは悲しいし、楽しいことは楽しい。
2週間を終えて
一番大きな発見は、「暇だと本を読むようになる」であった。
普通にためになる。