大人になる条件。
「自分は大人と呼べるのか?」
社会人になったばかりの頃、慣れない仕事に翻弄される毎日を送っていたぼくは、ぼんやりとそんな悩みを抱いていました。
8年前、初めての子どもが生まれたときも同じことを考えていた。
子どもが生まれた。
果たして、これで自分は大人になったと言えるのか?
社会に出て、金を稼ぎ、親となったけれど、「大人になった」という自覚を感じることはできませんでした。
「大人になった」と感じられるようになったのは、ここ4~5年のことです。
なにがぼくを大人へ変化させたのか?
それは「ケアの体験」でした。
幻想の大人の条件
成人式を迎えれば大人になる。社会に出れば大人になる。子どもを持てば立派な大人になる。
人はそう言うけれど、本当にそうだろうか?
一般的に「大人の定義」とは、成人年齢を超えたことを意味するけれど、18歳や20歳そこらで、「自分は立派な大人だ!」と思えた人がいただろうか?
ぼくはまったくそんなことはなかった。
世間を知らず、自分に自信が持てず、心の中はいつも不安と劣等感でいっぱいで、風に吹かれれば折れてしまいそうな頼りない苗木のようだった。
新卒として働いた呉服屋では、ベテランおばちゃんスタッフにこき使われ、いつまでも子ども扱いだった。
次に勤めた商社では、あまりの仕事のできなさに9ヶ月でクビになった。英文メールを返信するのに丸一日かけていたから、クビになって当然だと思う。
その後、いくつも転職を重ね、なんとかぎりぎり家族を養えるようにはなったけれど、子どもが生まれてもぼくが「大人になった」という自覚を持つことができなかった。
苗木からいくらかは成長したけれど、まわりの大きな木に圧倒され、いつも焦っていた。
ぼくにとって「大人の条件」とは、友人よりも多くの金を稼ぎ、都心の高層マンション(もちろん高層階)に住み、ブランドショップで買った高い服を着て、やりたい仕事で成功し、趣味にお金と時間をつぎ込む。そんなチープな幻想だった。
ボーナスが数年間出ない会社で必死で双子を育てていた当時のぼくには、決して手が届きそうもない「大人の条件」だった。
当時のぼくにとって、大人の条件とはそういうものだった。
成功しているように見える友人や、お金を持ってそうな取引先の大企業の人間たちから、影響を受けていたのだと思う。
だけど、子どもが3歳くらいになる頃、ぼくにとっての「大人の条件」は少しずつ変わってきた。
苗木から大樹へ
最初の子どもは双子だったので、それはもう育児は大変だった。
深夜2時から朝6時までがぼくの授乳担当時間だったので、妻もそうだったけど毎日倒れそうなほど寝不足の連続だった。
土日には子どもたちを公園で遊ばせるのだけど、うちの子たちはエネルギッシュで公園を3件ハシゴしなければいけないほどだった。
夜の9時から朝の5時まで、寝ない子どもを抱きかかえ、アパートの廊下を歩き続けたこともある。
子どもが3歳になり、少しだけ育児が楽になった頃、ぼくは妻との間に大きな溝が生まれていることに気がついた。
家事育児に関する負担が妻の方が大きかったこと、ぼくが妻ではなく子どもばかりを見ていたことが原因だった。
その頃から、ぼくは妻のケアを意識するようになっていった。
妻は思ったことをすぐに口にするタイプなのだけど、家事育児に関しては「自分はママだからがんばらないと」という呪いにかかっており、本心を言えない状態におちいっていた。
呪いが原因で不満を言えない妻の心を解きほぐし、距離を縮めることができたぼくらは、偶然にも3人目を授かることとなる。
3か月間の育休を取り、海外出張を断り、働き方を大きく変えたぼくは、仕事から家庭へと優先順位を大きくシフトさせていった。
授乳し、うんちで汚れたオムツを替え、ご飯を作り、寝かしつけをし、妻と保活をし、「家庭」にどっぷりつかるうちに、ぼくはあることに気がついた。
それは、家庭は論理ではなく、感情で回っているということだ。
ギャン泣きする0歳児に「うるさい!」と言っても静かにならない。赤ちゃんが心地よいと思うゆすり方を見つけないといけない。
うんちを漏らす1才の子に「もう漏らすなよ」と言っても意味がない。一人でトイレに行けるようになる4~5才まで待たないとならない。
怖くて寝れない2歳の子どもに「早く寝なさい」と言っても聞きやしない。しばらく添い寝をして気持ちを落ち着かせないといけない。
育児はままならないことの連続で、論理なんてこれっぽちも役に立たなかった。
夫婦関係もそう。
お互いに疲れ切っているから、「あなたがやるべき」だとか、「本来はこうあるべき」だなんて理屈はまったく通用しなかった。
それよりも、お互いの感情に寄り添うことで、前を向くエネルギーを充電する必要があったんだ。
育児も夫婦も、その根底にはケアという概念が存在した。
もちろん、問題解決のためには論理性が必要になることもあるけれど、感情を忘れてはならず、そのバランスを取ることが大切なのだと思う。
ぼくはケアの体験を通して、論理と感情をバランスよく成長させることができた。
吹き飛びそうだった苗木は大樹へと成長し、どんな嵐がきてもどっしりと立っていられる自信を身につけた。
年月を経た硬いオークの木のように心をどっしりと安定させ、しなやかな枝を空いっぱいに広げ、柔らかな葉で妻と子どもたちを包み込む。
うなるような金はなく、趣味に使う時間もなく、都心の高層マンションに住むつもりなんて微塵もないけれど、ぼくは自分が「大人になった」という感覚を、今は強く感じることができる。
ぼくを大人にさせてくれたものは、地位でも名誉でも金でもなかった。
元気が良すぎる3人の息子たち、そしてどんな時も手をつなぐことを諦めなかった妻への「ケアの体験」、それだけだったんだ。
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