~無職記2023年12月15日(金曜)~祖母の命日・肉体があるということ
<1年前の今日の行動・日記の内容より>
よく聴くPodcastでハガキが読まれた。やったー。
ステッカーどこに貼ろうかとわくわくしている模様。
そして、
12月15日(金曜)は祖母の命日である。
2023年は亡くなった日から7年。
もう7年。小学校卒業+1年とは驚きである。
ということで祖父の家へ。
祖父は犬と共に暮らしており、ボケることも無く元気にしている。
介護ではなくごはんの世話を母達の兄弟がしているが
「昭和の男」の減らず口を叩いている。
当時の”男性の女性の扱い方”を見せてくるので、
世代ってもので人は全然違うと思い知らされたそうだ。
命日ということで親戚が集まった。
この1年前は日記をつけていないため定かではないが
家から10分以内の場所に住んでいる親戚と会うのはおそらく正月ぶり、約1年ぶりだった。
こうして人は人と会わなくなっていってしまうものなのかな?と思ったそうだ。
<覚えていること・思うこと・脱線話>
今年も祖母の命日。まあ命日が変わることは無いのだけど。
祖母は亡くなる数年前にパーキンソン症の重度版になってしまった。
重度版ということまでしか覚えられなかったのは
「あんなに元気な祖母がそんなものになるはずがない!」という
現実逃避と受け入れないが故の心の抵抗だったのだと思う。
未だに正式な症状の名前は覚えられず、正式名を言われても”わからない”と思う。
2024年現在時点で、2親等以内(要は祖父母まで)で亡くなっている唯一の人で
最も長い時間を過ごしたのが祖母だった。
実家から歩いて10分以内。小学生の時でも15分以内には着く近さ。
その近さで可愛がってくれる祖母がいれば、
そりゃ夏休み期間なんかはよく入り浸っていた。
黙っていてもお絵かき帳を買い与えてくれ
当時はまっていたカードゲームも1日1回100円だけは買ってくれた。
買った4枚組のカードのデジモンの絵を描くと
「上手だね~」「これはどこからが胴体かキラキラしててわからないね」等と
孫だから手放しに褒めるのではなく、褒めることもするけど
「私はこう思う」を明るく伝えてくれる祖母だった。
症状が進み歩行もなかなか難しくなってきた折に
つまづいて脚を骨折し、その時にどこかを打ってしまったようで
そこからは一言も口を利くことができなくなってしまい植物状態になってしまった。
そして、人工呼吸器を病院側も12月15日までしか付けることができないと言われてしまった。
「付けることができない」とはこりゃどういうことだ!?という怒りはある。
一方、この人工呼吸器がなければ祖母という肉体は何カ月も前に
自分が仕事をしている間に、亡くなっているかもしれなかった。
最期に伝えたい言葉たちも、応答も返答もなくても
「伝え先の肉体」が無くては空虚に感じていたかもしれない。
「そこにある・いるということ」は人にとって大きいことなのだと感じた。
昨今のどう考えてもダメ・マイナスな状況からポジティブな面を引き出そうとする風潮が私は苦手だが、
これに関しては「いるかいないか」で心の持ち様が絶対に違ったと思えるから
悲しいけれども病院の人達に感謝とまでは言えないけれど…うん。
最期の時を延ばしてくれて”助かりました”という気持ちである。
それまで未体験だった心のショックであり、
お葬式などでは涙は全くでなかった。
「男の子は泣いたらいけない」で育てられてきた私。
それは祖母の言葉ではないけれど。
ふと、1人になった時に涙が出た。
記憶にある中では中学生以降で初めて号泣してた。
そして2024年現在。悲しさで泣くことはやはり無い。
本や映画等で心揺さぶられ少し涙したことはあったが、映画が終わる頃には乾いている。
ただそこにいること。
例え動けなくとも。
それだけで人間は悲しみから遠ざかることができること知った。
自分で自分に心無い言葉を投げかけてしまい
その身を滅ぼそうとしている人もいる。
滅ぼしてしまっては他人から永遠に「あなたの最期」を取り上げることになる。
他人のことなど知るか!という気持ちかもしれないが、
あなたにはあなたがいなくなった時、悲しむ人がいる。
だから、なんとかして生き抜いてほしい。
身体が。心が。痛くて動かなくなろうとも。
そこにある小さくなってしまった肉体が
どれほどの思い出を蘇らせてくれたか。
どれほど覚悟を決めるための猶予を作ってくれたか。
それでも人生は進む。
みんな十字架を背負い、傷だらけで血塗れの背中を隠して歩いている。
なんとか歩いていく。
生きていこう。
おしまい