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勝負をする恐怖、その勇気を得る動機

後悔してでもやりたいことをしたほうがいい。
例えその選択が絶対的な間違いだとしても納得だけはできるでしょう?

今年度(引いては去年のことではあるが)、僕は家を出て一人暮らしを始めた。
始まりまでこそ期待と、ワクワクで胸がいっぱいだったが、様々なことを経験するうちにすっかり大人になってしまったようだ。

1月11日、どうしても久々にキリスト教の礼拝に行きたくなった。
いや、宗教の話だが、構えなくて大丈夫だ。
今更ながらにカミングアウトするなら、僕は大学生の時にクリスチャンとなった。
なったからといって生活に何か影響があったわけでもなく、人が離れてしまったこともない。(会社、職場にこの話はしないことにしているし、何かあってもしらばっくれていて嘘をついている。少し心は痛むが。)
そしてその日、仕事が残っていることもわかっていたし、帰ることでおこる非難も十分承知だったが、僕は会社を早退した。有休といえば聞こえはいいが、要はサボりだ。

口にまで届く前髪をバッサリと切り、前向きの耳が見える程度にはサイドも切り、久々に会うであろう人に所謂「小汚い」自分を見せないようなんとか取り繕ってから急いで大学へと赴いた。

結論から言うと、この選択は半分は正しかったが、半分は後悔だった。正しかったのは礼拝に出たこと。久々に何ヶ月もサボった何かが洗われるようだった。心にあった様々なしがらみや思いが全て解放されたような、いろんな感情が僕を飲み込んで、そしてまた再生成される。やはりコンスタントに行かないとなぁと思うばかりであった。
残りの半分の後悔は、もう平日に大学、中でもサークルに顔を出すようなことはしないほうがいいな、と思った。老害だからとかそういうことではない。ただただ「眩しい」のだ。
かつて自分がそこにいたであろう場所は今の現役の子達が確かに根付いていて、そしてキラキラと輝いていた。そこに土足で入って汚したかのようないたたまれない気持ちになった。
今思えばかつて、自分が現役の時に部室に来るOBというのはどこか親のような顔で僕たちをみていたような気がする。時が経ち今では僕がそういう顔になってしまったんだと思う。

大学でそのサークルに所属するきっかけは「鍵盤楽器を弾けるようになりたい」だった。コード弾きと、ソロ、多少のピアノタッチは出来るようになって今楽しい音楽を紡いでいるが、飛び込んだのは勇気と選択だった。この選択は僕の人生において180度変わる転機となってしまった。

些細なことも、大きなことも全て分岐点で形成されていく。それが人生と気が付いたのが社会人からだ。とてつもなく遅い。
今僕はその選択肢を2018年から毎回選び、ミスをしてきている気がする。生き方のこと。仕事のこと。言葉のこと。そして恋のこと。

「日日是好日」という映画を見た。周りがどんどんと大人になっていく中、自分だけが子供のまま、そして人が亡くなっていく。
まだ幸い大切な人は亡くなっていないが、主人公はなんだか自分にそっくりだった。お茶が音楽になっただけのようだった。

後悔をして、それを怖がってまた後悔をする。
この連鎖が凄く今続いている気がして自分が嫌いだ。

いつもお世話になっているバーのバーテンダーさんが前に僕にこう言ってくれた。その方は昔お笑い芸人で飯を食おうとしていた。

「やらない後悔とやってする後悔があるじゃない?みんなやって後悔したほうがいいって言うけどこの言葉ってさ、なんか背中を押すには少し中途半端な言葉だと思わない?今だからめちゃくちゃ脅すけど、やってする後悔ってやらないでする後悔よりも後悔のレベルとしては大きいと思うんだよ。絶対に人間、冒険するほうが痛い目を見る。転職をして給料が下がったり、社会的地位が下がったり、友達が離れていったり。だから本来はこんなセリフ、ないほうがいい。けど夢を追いかけた俺はそれでもやったほうがいいっていうよ。やって、とことん失敗して、やんなきゃ良かったって思ってしまえ。後悔してしまえ。給料下がってしまえ。それでも得られるものが人生において一番の財産だし。結果良かったなと思えるはずだから。」

僕は2月に勝負に打って出る。全部の対戦カードをきろうとおもう。全部のマッチを受けて立つ予定だ。今思えば僕の人生は全て「挑戦」と「勝負」で出来ている。いつ腑抜けになってしまったのか。
戦いはもう目の前にある。会える人にはとことん会って、そして周りから"あいつはおかしくなった"と言われるようなことをしよう。
それが僕の2019年の抗いで争いだ。

でわでわ

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